はっと目が覚めたら、もう朝になっていた。
いつの間に眠ってしまったのだろうと考えつつ、土浦梁太郎はベッドからむっくりと起き上がる。その時カーテンの隙間から差し込んだ朝日が顔に当たり、土浦は思わずそれを手で遮った。
同時に、心までその光に貫かれたような感覚に陥る。
土浦が顔をしかめた後、欠伸が出た。我ながらなんてちぐはぐな行動なんだろうと思いつつ、土浦はくしゃくしゃになっていた髪を梳いた。
先程の欠伸が物語っていたように、昨日はほとんど眠れなかった。その原因は、昨日起きた――起こしてしまった、の方が正しい――出来事だった。
昨日、土浦は思わず冬海の唇を奪ってしまった。それは心の中に一つの願望としてあったものだとはいえ、してしまった自分にとっても予想外の行動だった。
何故そんな行動をとったのかと、土浦は自分を問い続けた。しかしきちんとした答えが用意されているはずもなく、土浦は悩んだ。その度に冬海のあの時の顔が頭の中に蘇ってきて、土浦は頭を抱えるはめになった。
いつもなら、悩み事は一度眠って起きてしまえば心の中で整理されていることが多い。しかし今回ばかりはそうもいかなかったらしく、昨日の悩みが生々しく心の中に残り続けている。土浦はため息をついた。こんな気分を引きずったまま、また学校へ行かなければならないのか。
しかし、残酷にも時間は刻々と過ぎている。もう準備しなければ遅刻になってしまう時間だ。土浦は一度思いを閉じこめておくことにし、急いで朝の支度を始めた。
数十分後。土浦は学校への道を足取り重く歩いていた。
土浦が今歩いている道は他の星奏学園の生徒たちの通学路でもあるため、周りは生徒たちの話し声で賑わっていた。しかしそんな生徒たちの声が土浦の慰めになるわけでもなく、土浦は一人どんよりとした雰囲気を抱えたまま歩いていた。この賑やかな雰囲気から抜け出したい、と土浦は思った。
そうやってぼんやりと歩いていた時、ちょうど横断歩道を渡って歩いてくる冬海の姿が見えた。土浦は思わず目を見開き、立ち止まる。それが突然だったせいか、後ろを歩いていた星奏の生徒が土浦にぶつかり、迷惑そうな顔をしたままその場を去っていった。
横断歩道を渡りきったところで、冬海も土浦の存在に気付いたらしい。驚きの表情を見せて土浦の方に視線を向けてきた。
「冬海」
「あっ、土浦先輩……」
冬海は視線を彷徨わせた。どう相対していいか分からない、といった様子だった。それは土浦の方も同じだった。冬海に対しての言葉が、全く見つからない。
しばらく二人とも黙っていたが、土浦はふと腕時計に目をやった。時間が迫っていることを悟り、土浦は慌てて歩き出した。それに触発されたように、冬海も慌てて歩き出す。土浦の後ろに冬海がついてくるという、よくある構図になった。
歩いている間も、冬海にどんな言葉をかけようかと土浦は悩んでいた。何も話さないわけにはいかない、しかし何を話せばいいというのだろうか。話題の全てが前日の行動に関わってくるような気がして、土浦はため息をついた。そこまで思考がいくと、今度はどうしても自己嫌悪に陥ってしまう。何故あんなことをしてしまったのだろう、という疑問に行き着くのだ。
――悩んでいたって、どうしようもない。
そう思った土浦は咳をして声を整えた後、後ろにいる冬海に声をかけた。
「冬海、昨日は……じゃなくて、今日は弁当……じゃなくてだな」
やはり、上手くいかなかった。
昨日のことを話題にするまいとしているつもりなのに、どうしても昨日のことに関連する言葉が口から飛び出す。土浦は自分が今、何を言おうとしているのかすら分からなくなった。後ろにいる冬海はきっと訳の分からないといった表情をしているだろう、と思いながら。
そうしてしばらく歩いたところで、土浦は何を思ったか、勢いよく冬海の方を振り向いた。
「冬海、昨日の『熱血・学園教師』、見たか?」
冬海はびくりと驚いた後、戸惑いの表情を見せた。土浦はその反応を見た瞬間、自分は一体何を口走ってしまったのだろうと思った。話題がない、話題がないと考え続けて、自分の中から出た答えはこれだった。全く脈絡のない、無意味な問いかけだ。これでは、自分で自分をフォローする気にもならない。
土浦が黙ったまま前を向いて再び歩き出そうとした時、冬海が小さな声で言った。
「あの、それってドラマ……ですか?」
「え? あ、ああそうだ。夜の九時からやってるやつ」
「あっ、私、それだったら見てます。あの、昨日も見てました」
「本当か? 冬海が、あれを?」
「はい」
頷く冬海を見て、土浦は目を丸くした。土浦が話題に出したドラマは、タイトル通り熱血教師が主人公の学園ものだが、学校内が荒れていたり暴力シーンが普通にあったりと過激なところが多い。そんなドラマをまさか冬海のような優しくて穏やかな性格の子が見ているとは思わなかった。
「いつから見てるんだ?」
「最初からです。その、たまたまテレビを見ていたらやってて、それで、続きが気になったので、今までずっと」
土浦は心臓を掴まれたような気分になった。
「ぜ、全部? お前、ああいう内容大丈夫なのか?」
「え? はい、大丈夫ですけど……」
「そうなのか。知らなかったな」
土浦はそう言って、時間が迫っていたことに気付き、再び歩き出した。冬海の方はというと、今度は土浦の隣に来て歩いていた。それを見て、土浦は小さく安堵のため息をつく。やっと、普段のように話せるような気がした。
「昨日の、あれはヤバかったな。二人とも喧嘩しててさ、男の方が本気で女を殴ってて」
「はい……そうですね」
昨日のドラマの話は、とあるカップルが喧嘩してしまうが、主人公の教師のおかげで仲直りするという話だった。その中にあった喧嘩シーンはかなりの過激さだったのだが、冬海は特に恐がっている様子ではなく、土浦は安堵した。
「でも良かったな。喧嘩してたあの二人、最後はちゃんと仲直りしてたし」
「はい。私もそう思いました」
「だよな。そういや最後のキスシーンも――」
そこまで言いかけて、土浦は止まった。言ってはいけない単語を口にしたような気がした。何だ、と一瞬考えて、はっと思い当たる。キスだ。
そう思った途端、その言葉がじわじわと土浦の心に染みこんでいった。もう遅かった。
一方の冬海も立ち止まり、手を胸に当てて小さく震えていた。
土浦は冬海の方を見て、ためらいがちに彼女の名を呼んだ。
「冬海」
「あっ、は、はい」
冬海は驚いたようにはっと土浦の方に顔を向けた。土浦を真っ直ぐに見つめる冬海の瞳が不安に覆われている。土浦は罪悪感のようなものに苛まれながら、言葉を続けた。
「その、昨日は……俺、何も考えてなくて、気付いたら、というか――とにかく、悪かった。お前の気持ちも考えずに、あんなこと」
言葉を選びながら、土浦はそう言った。選びながらとは言うが、それでもぎこちない言葉ばかりになってしまった。冬海はまだ不安そうな瞳のまま、土浦を見つめていた。
土浦はたまらないと思った。冬海のこの瞳は、最初から苦手だった。まるで自分が拒絶されているような気分になってしまう。
いや、確かに、今のこの状況では拒絶されても仕方がないのだが――そう思って、土浦はため息をついた。仕方がないことではあるが、しかし冬海から拒絶されることはこの上もなく悲しい。
土浦が早くも悲しい気分に浸っていると、冬海は俯きながら、小さい声で言った。
「あの、先輩、謝らないでください」
「え?」
「私、少しも嫌だなんて思ってませんから……だから」
その時、冬海の瞳の色が変わったような気がした。不安ではなく、何かを訴えかけるような熱い瞳。こんな瞳の冬海を見るのは、初めてだった。
「冬海」
土浦は呼びかけた。冬海は戸惑いがちにはい、と答える。
「それは、俺がいい方に解釈してもいいのか?」
そう尋ねられて、冬海は少し戸惑っていたようだが、ぽっと顔を赤らめて小さく頷いた。
土浦は全ての肩の荷が下りたような気がして、そうっと安堵のため息をついた。全ての悩みが、土浦の体からすうっと抜けていく感覚がした。そうなると、なんて小さなことで悩んでいたんだろうとさえ思えた。
心が安心に包まれた時、土浦はふいに欠伸をした。同時に眠気が襲ってくる。昨日眠れなかった反動が、今になってやって来た。
自分の欠伸に苦笑していると、冬海も若干眠そうな顔をしていた。土浦はまさかとは思いながら、冬海に尋ねた。
「冬海、昨日寝てないってことはないよな?」
「あ、いえ、そんなことはないです。でも、その、あんまり眠れなくて」
冬海はそう言った後で、ふわりと口を開けた。それは紛れもなく、彼女の欠伸だった。
土浦は思わずどきりとし、不意打ちにあったような気分になった。彼女の欠伸は初めて見たが、それは誰がどう見ても可愛いと思ってしまうような仕草だった。
赤面しつつ、空を仰ぎながら、土浦は呟くように言った。
「お前も、俺と一緒だったんだな」
えっ、と小さな疑問を投げかけてくる冬海に、土浦は照れたような笑みを見せる。
今日も、いい一日になりそうな気がした。