光は眩しすぎる

「……あ」
 朝食を終えて、庭に出てきたソフィは驚いた。
 昨日までつぼみだったクロソフィの花が花弁を開き、太陽へ首を伸ばしているのを見たからだ。僅かに吹いてくる風に乗って、葉がさやさやと揺れる。立派に成長した美しいクロソフィの姿に、ソフィは思わず顔を綻ばせていた。
「きれい」
 素直な言葉が、口から出てくる。微笑ましい気持ちで、ソフィは花の前にしゃがんだ。
 そうしてすぐに、込み上げてくる温かな気持ちに気付く。これは一体何だろうと、薄紅色の花弁を見ながら考えた。喜び。確かに喜びに似た気持ちではあるのだが、単純なそれではないような気がする。夕食が大好きなカニタマだったとか、アスベルに頭を撫でてもらったとか、そういう時に感じる喜びとは、また違う感情のような気がする。
 ふと、ソフィは先日庭で交わしたケリーとの会話を思い出した。ケリーも花が好きで、ソフィがラントに来る前まで、この花壇を手入れしていたのはケリーだったという。だからたまに、こうしてソフィが作り上げたクロソフィの花壇を見に来ることがあった。その唇には、常に笑みがたたえられていた。
 初めケリーは、アスベルが連れてきたどこの者とも知れぬ少女に戸惑いを覚えている様子だったが、花の好きな者同士、何か通じ合うものがあったのだろう。二人はぎこちないながらも、徐々に多くの言葉を交わすようになった。
「まあ。また綺麗な花が咲いたのね」
 ケリーは目を細め、ソフィは水やりをしていた手を止めて頷いた。ケリーは花壇を見回し、どこか懐かしむような目をした。
「一生懸命育てた花が咲いた時の喜びは、本当に格別ね。あなたもそうでしょう、ソフィ」
「うん。とても嬉しい」
「ふふ。まるで子供が育っていくのを見るような、不思議な気持ちになるわ」
「こども?」
 ケリーの言葉の意味が分からず、ソフィは首を傾げた。ケリーは再び上品に微笑んで、言葉を続けた。
「そう。アスベルやヒューバートが成長して大きくなっていくのを間近で見ていた時、同じような気持ちになったわ。ソフィ、あなたにはまだ分からないかもしれないけれど――」
 ケリーの言葉が、一言一句漏らさずソフィの脳内で再生された。その時ケリーが放った言葉の中に、印象的なものがあったのを覚えている。
「成長……」
 呟くように言って、ソフィは思わず自分の小さな手を見た。アスベルたちと出会った頃から何一つ変わらない自分の容姿。あの頃は同じ目線で、否、アスベルたちよりも少し上から世界を見ることができていたのに、数年後再会した時、その関係は逆転していた。
 彼らは変わらぬ温かさでソフィと接してくれていたけれど、その喜びとは裏腹に、切ない思いが喉元に込み上げてくるのを、ソフィは感じていた。
「わたしは、成長……しない」
 大好きなカニタマをいくら食べても、花たちに水をやるように牛乳を飲んでも、ソフィの身長が伸びることはなかった。
 いつだったか、アスベルの部屋で柱にもたれかかって背比べをしたことがある。アスベルに印を付けてもらった場所を覚え、あれから何度か柱にもたれかかった。けれど、自分の頭の天辺と傷を付けた場所がぴたりと一致しているのを悟って、何度肩を落としたかわからない。
 この身体が、アスベルやケリーのような普通の人間とは異なったものであるということは、この世に生まれ落ちた時から――否、作られたと言った方が正しいか――知っていた。ソフィはただ、ラムダを殺すためだけに作られた機械。その身に付けられた名は“プロトス1”――何の意味もない、ただ個体を区別するためだけの記号だ。だがアスベルたちに会うまではそのことに何の疑問も持たなかったし、持つような心すら持ち合わせてはいなかった。
 だが、今はもうそうではない。アスベルたちに出会い、彼らの温もりを知ることで、人間らしい思考を得、人間らしい感情を得た。花が成長する様子を見て嬉しいと感じ、自分が成長しないことを知って悲しいと感じる心が、確かに自分の身体には宿っているのだ。


 その時、館の扉が音を立てて開いた。ソフィははっとして、髪を揺らしながら振り向く。するとそこにはアスベルが立っていた。
「やっぱりここにいたか、ソフィ」
 ソフィは喉元まで迫った切なさを押し殺し、アスベルに尋ねた。
「アスベル、どうしたの」
「いや、今日は昼から時間ができたんだ。久しぶりにお前と出かけようかと思ってさ」
 そう言って笑うアスベル。いつもなら嬉しくて、笑ってすぐさま頷くところなのに、ソフィはそうできなかった。顔が強張っているのを、自分でも感じた。
 その様子を不審に思ったのだろう、アスベルがソフィの近くまで歩いてくる。
「どうしたんだ? 俺とは出かけたくないか?」
 自分の隣に立ったアスベルの顔を見ようと、無意識に視線を上げる。その時、アスベルの頭の向こうにある太陽の光と出会ってしまい、ソフィは咄嗟に目を細めた。あまりに強い眩しさだった。頭がくらくらして、眩暈のような感覚に襲われる。
 きっと見上げるからいけないのだろう。そう思って、ソフィは立ち上がった。
 そうして再び、アスベルに視線を向ける。けれども、先程とさほど結果は変わらなかった。アスベルの顔を見るためには、やはり視線を上げなくてはならない。そうすると再び太陽の刺すような強い光と出会うことになって、ソフィの頭はくらくらとしてしまうのだ。
 ソフィは泣きたくなった。押し殺していたはずの切なさが、喉からどっと溢れ出す。
「ソフィ? どうしたんだ、ソフィ!」
 本気で心配しているらしいアスベルが、気遣わしげな表情でソフィを見つめてくる。ソフィは息が詰まるような感覚を覚えたが、喉から言葉を絞り出した。
「アスベルの顔、眩しくて見られない」
 えっ、という戸惑いの声。予想外の答えだったのだろう。どう返せばいいのか分からずおろおろとした様子のアスベルに、ソフィは言った。
「ずっと、このままなのかな。ずっと、わたしはアスベルの顔を見上げなきゃいけないのかな。わたし、大人にはなれないのかな……」
「ソフィ……」
 アスベルの声には、憂いが含まれていた。きっとアスベルも、ソフィの心情を理解しようとしているに違いなかった。ここで慰めの言葉が何の意味も持たないと知っていたけれど、この時ばかりはアスベルに慰めて欲しいと、心の奥で密かに願う自分に気付いた。
 だが、それ以上に大きな自分の願いも知っている。それは、常にアスベルに笑っていて欲しいということ――
 だから、ソフィは首を振った。
「ごめんなさい。アスベル、そんな顔しないで」
「けど……」
「いいの。わたしはアスベルと一緒にいられるだけで、幸せだから」
 幸せ。覚えたての言葉を使って、自分の胸にある確かな喜びを表現しようとする。それがアスベルに伝わったかどうかは分からない。だが次の瞬間、ソフィの髪がふわりと持ち上がった。細い身体が引き寄せられ、アスベルの胸に顔を押しつける格好となる。
「俺が生きている限りは、ずっとお前の側にいる。約束する。俺にできることなんて、それくらいしか思いつかないけど――ごめん」
 アスベルの胸は温かかった。ソフィは腕の中で小さく首を振った。
「アスベルといられるのが幸せなのは、ほんとうのことだよ。でも……時々、怖くなるの。わたしの周りだけ、時が止まっているような気がして……取り残されそうで、不安で」
 きゅ、と拳を握りしめる。アスベルが宥めるように、愛おしげに頭を撫でてくれた。言った後で、自分はそう思っていたのか、とソフィは改めて思った。こうして自分の心情を、はっきりと言葉に表したことはなかったからだ。
 ヒューマノイドにはっきりとした寿命はない。少なくとも人間よりはずっとずっと長く生き延びられることは確かだ。自分は千年前フォドラで作られ、こうして今もなお生きているのがその証拠だ。老いることもなく、ただ時間が流れていくのを、どうすることもできず眺めていることしかできない。
 人間とこうして接触することがなければ、こんな感情は湧かなかったのかもしれない。だが、その方がましだったかと問われると話は別だ。ソフィは絶対に首を横に振るだろう。アスベルの包み込むような温もりを知って、人と心を通わせられることを知って、一つ一つの小さな喜怒哀楽を知った。その方が幸せに決まっていると、ソフィは断言することができる。
 無味乾燥な色のないソフィの世界に、光を与えてくれたのはアスベルたちだった。だからこそ今、こんなにも自分を取り巻く世界を愛することができる。クロソフィも、カニタマも、アスベルも、ケリーも、旅をした仲間達も、みんな。
 時間の流れを強く感じ、取り残される感覚に襲われたとしても、それは変わらない。
「ずっとここにいたい」
 心の奥底に沈んでいた願いが、ようやく水面から顔を出す。アスベルはああ、と頷いて、ソフィを抱き締める腕にいっそう力をこめた。
「俺も……お前を離したくない。ずっと俺の側にいてくれ、ソフィ」
「うん……!」
 ようやく、ソフィの唇に微笑みが浮かぶ。それを見て、アスベルの表情もゆっくりと緩んだ。
 アスベルの顔を見上げるのは、やはり眩しい。けれどその眩しさは、決して太陽のせいではないと、ソフィはようやく悟ったのだった。


 ――今のわたしには、人間という存在が、眩しい
(2010.12.8)
Page Top