祈りの季節

 アスベルに連れられてやって来たのは、代々ラントの領主が眠る墓だった。大きな墓石には花が供えられ、その場所に眠る領主達の名が彫られている。一番新しく彫られたのは、無論アスベルの父、アストンの名だった。
 アスベルは父の死に目に会えなかったと聞いている。それまでの経緯が複雑だっただけに、アスベルの心には何か込み上げてくるものがあったのだろう、じっと墓石を見つめたまま、しばらく動かなかった。ソフィはその様子を窺いながら、墓石に視線を落とした。
 墓という場所が人間にとってどういう意味を持つのか、ソフィは知識として知っていた。寿命のある人間にとって、身近な人の死を体験するのはこの上なく辛いものだということも。人間の命は有限なのだ。それはこの世に産み落とされた時から変わらぬ普遍の真理だ。
 微かに肩を震わせるアスベルをそっと横目で見ながら、ソフィはアスベルの心情を想像しようとする。父を亡くしたアスベルの思い。ソフィに父親はいないが、身近な存在がこの世から去ってしまった時のことを考えてみる。
 ソフィの最も身近な存在――アスベルがもし、自分の元から去ってしまったら――
 ソフィは無意識に身震いしていた。怖い。まず初めに出てきた感情は、それだった。唇がわなわなと震えるのが分かった。
 更にアスベルの身体がこの墓石の下に眠り、アストンの名の下に新しく“アスベル”と彫られる想像までもが頭をよぎり、ソフィは慌ててその想像を頭から振り払った。
 紫の細髪が首の動きに合わせて揺れる。その髪がアスベルの足に当たったらしく、アスベルは怪訝そうな顔をして、ソフィを見下ろした。
「どうしたんだ、ソフィ」
「なんでも……ないの」
 声までもが震えていた。
 人間はいつか死ぬ。周囲の人々を看取った後、自分も看取られる立場となる。だが、ソフィはそうではない。ソフィの身体がヒューマノイドで、その身体を解体でもされない限り、寿命は存在しない。つまり、これから幾人もの人々の死を経験していくことになる。
 その死はまだずっと先のことだろうが、しかしいつかは起こりうることだ。一緒に笑い合った日々は遠くなり、快活だった彼らは老い衰えてゆく。そうして誰もが、ソフィを置いてあの世へ行ってしまう。いつか、一人ぼっちになったら――彼らの温もりを知ってしまったがために、ソフィは一人になる怖さ、どうしようもない寂しさを知ってしまった。温もりを知れたのは幸せなことだが、その代償はいつまでも残る。
 アスベルはしばらくソフィの様子を見守っていたが、そっと墓石に視線を戻した。
「俺が小さい頃はまだ、親父の偉大さなんて分からなかった。だから、事あるごとに反発ばかりしていた。でも今は……身にしみて分かる。俺は親父がしてたようにちゃんとラントを治められるか、未だに自信がないから」
 アスベルは自分の右の手の平をじっと見つめていた。
 その手の大きさを、ソフィは知っている。いつもソフィの頭を撫でてくれる手。ソフィを庇ってくれる手。ソフィの手を握りしめてくれる手。けれどもその手の平に収まるには、ラントという地はあまりに大きすぎる。ウィンドルの首都バロニアや他国の都市と比べれば小さな街だが、そこには何人もの人々が住んでいる。その地の全てを、アスベルは背負う立場にいるのだ。彼が不安を抱えるのも、当然のことと言えた。
「アスベル」
 様々な思いを込めてアスベルの腕をぎゅ、と握りしめると、アスベルはふっと表情を緩めた。
「ごめん。俺が弱気になってちゃ駄目だよな。親父に恥ずかしくない生き方をするためにも、俺がラントをしっかり守らないと」
 その声には、確固たる決意が宿っていた。それを聞きながら、ソフィも再び墓石に視線を落とす。
 風が吹いて、供えられた花々が微かに揺れる。中には墓石からこぼれ落ちる花もあった。だがその墓石に刻まれた文字は、変わらない。いつまで経っても強く残り続けるのだ。有限の命を持つ人間たちにとって、それは良いことなのかもしれない。だが、いつまでもそのことを思い出し続けながら生きねばならない宿命を背負ったソフィにとっては、あまりに辛すぎることだった。


「さて……お祈りをしようか」
「おいのり?」
 ソフィが軽く首を傾げると、アスベルは両手を顔の前で合わせた。
「こうして、目を閉じるんだ。そして、心の中で祈る。墓の中にいる人たちが、安らかに眠れますようにって」
 アスベルに従って、ソフィも眼前で静かに手を合わせた。アスベルがそれでいいと頷くのを確認して、正面を向き、そっと目を閉じる。
 風が左から右へと吹き抜けていく音が聞こえる。葉の擦れる音が聞こえる。アスベルはもう祈っているのだろうか。そんなことを少しだけ考えて、ソフィも祈ってみることにした。
 アスベルのお父さんたちが、安らかに眠れますように。そう心の中で呟いた後、ソフィは思わず祈りの言葉を続けていた。
 ――どうかわたしも、このお墓でアスベルと眠れますように
 それはほんのささやかな、しかし叶うことのない願いだった。今、生きているこの瞬間はもちろんのこと、アスベルがいつか眠りについた時も、そっと寄り添いたい。そう願う心が、胸の中で素直な言葉を吐き出した。
 ――人間に、なりたい
 あまりに熱心に目を閉じて祈りを続けていたら、隣でふっとアスベルが笑う声が聞こえた。
「親父達のために祈ってくれてありがとう。きっと親父達も喜んでくれているよ」
 その純粋な言葉が、今のソフィには辛く突き刺さる。既に自分の祈りは、彼らに向けられたものではなくなっていたからだ。胸に湧き上がる祈り。それがどこへ届いて、果たして叶えられるのかどうかすらも分からない。けれどもソフィは一心に祈ることしかできなかった。
 目を開けてアスベルと向き合うと、その視界が歪んだ。ヒューマノイドは泣けないはずなのに。急に不安に襲われて、アスベル、と声を上げ、手を伸ばす。
 その手がアスベルの指と絡まる感覚が、ソフィの心に安寧をもたらす。歪んだ視界は元に戻り、ソフィの視線の先にはアスベルのやや怪訝そうな顔があった。
「また……ここに来ても、いい?」
 上目遣いに尋ねると、アスベルは驚いたように目を見開いた後、穏やかな笑みを浮かべて頷いた。
「ああ。俺はなかなか墓参りには来られないかもしれないから、たまに花を供えておいてくれたら嬉しい」
「うん」
 花壇に植えたクロソフィやアマリリスの花などを摘んで持って行こう、と心に決めた。
 再びアスベルに手を引かれて来た道を戻りながら、ソフィは深呼吸をした。心が不安に駆られた時、祈る場所を見つけられた。誰の目も気にすることなく、こっそりと。自分がこの身体に宿った運命を受け入れられるまで。
 アスベルに握られたソフィの手には、無意識に力が込められていた。
(2010.12.10)
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