領主の仕事というのはなかなかに大変なものであるらしいと、ソフィはアスベルの様子を見ながら思っていた。六人で旅をしている間も、世界を救う使命や何やらで随分慌ただしかったように思うけれど、やっとラントに戻ってきて一息つけるかと思ったのに、どうやらアスベルはそうではないらしい。
執務室で書類の山に埋もれているアスベルを、ソフィは外から窓を通して眺めていた。朝から花の世話を終え、ソフィは暇を持て余していた。アスベルがそれほど忙しそうでなければ、窓を叩いてアスベルを呼ぶこともできたのだが、今は邪魔になるだけだと知っていたから、何もしなかった。
一つ屋根の下に一緒に住んでいるけれど、アスベルと過ごせる時間は以前より減ったように思う。寂しさを胸に抱きつつも、ソフィが我が儘を言うことは決してなかった。それがアスベルのためであり、またアスベルの愛する地ラントのためでもあると知っていたからだ。
アスベルは誰よりもラントの地を愛していた。バロニアの騎士学校に通うため、一度ラントから離れていたという事、更に世界を救うため旅に出たという事も、ラントに対する愛情を深める要因となっていたようだ。その場所にいるばかりでは、なかなか良さには気付かない。一度その土地を離れ、他の場所を見て回ることで、初めて分かることも多いのだ。
ソフィもラントの地が好きだった。ここにいる人たちは、みんな優しい人たちばかりだ。穏やかな風が流れ、太陽の光が燦々と降り注ぐ緑豊かな地。一度自分の故郷であるフォドラの現状を目の当たりにしたことのあるソフィなら、この地がどんなに美しいか、説明するまでもなく分かる。ソフィの大好きな花たちが健康に育つこの土地は、ソフィにとっての楽園とも言えた。アスベルと一緒にここで暮らせると知った時、ソフィの胸に満ちた温かい感情を、ソフィは片時も忘れたことはない。アスベルはソフィの居場所を作ってくれたのだ。
だから、ソフィはアスベルに何も言わない。それがアスベルだけではなく、自分の愛するもののためでもあると知っているからだ。
そうは言っても、暇を持て余したソフィの心には、退屈だという思いがどんどん募る。ソフィは窓にぴたりと顔をくっつけ、アスベルの様子をより近くで見ようとした。
アスベルは書類に羽ペンでサインをしたり、文章のたくさん書いてある書類を顔をしかめながら読み進めていた。アスベルがとても大変そうだ、ということは、ソフィにも分かった。だからこそ余計に話し掛けない方がいいと分かっていたが、ソフィの身体はどんどん前乗りになり――うっかり窓に手を付けてしまった時、がたんという音をさせてしまったことに、後になって気付いた。
アスベルは何事かという顔をして振り返った。ソフィはしまった、と慌てて身体を引いたが、アスベルには勿論見つかってしまった。
アスベルはソフィと分かると頬を緩め、こちらへ近づいてきた。窓を開け放ち、ソフィに向かって笑いかける。
「どうしたんだ? もう花の世話は終わったのか?」
「うん、さっき。だから……ちょっとだけ、退屈だったの」
アスベルの邪魔をしてしまった――後ろめたい思いを抱えながら俯き加減に言うと、アスベルはそうか、と言って、穏やかな笑みを見せた。
「ごめんな。俺が遊び相手になってやれればいいんだけど、ちょっと今は厳しくて」
「ううん、いいの。アスベルはお仕事に集中して。邪魔して、ごめんね」
ソフィが謝ると、アスベルは首を横に振った。
「謝らないでくれ。ソフィの顔を見たら、なんだか気持ちが落ち着いたよ。明後日には落ち着くと思うから、片付いたら一緒に出掛けないか? 久しぶりだしな」
思いもかけない、しかし嬉しいアスベルからのお誘いだった。ソフィは顔をほころばせて、うん、と頷いた。紫の細髪が、頷くのに合わせて揺れた。
「どこがいいかな。いっそ、バロニアまで行くのもありかもしれないな」
顎に手を当てて思案するアスベルに、しかしソフィは首を横に振る。
「わたし、ラントの裏山に行きたい」
「え? でも、せっかくなんだから遠出した方が楽しいんじゃないか?」
「ううん。あそこでいいの。わたし、あそこが大好きだから」
それは本心からの言葉だった。バロニアで遊ぶのが楽しくない、というわけでは決してない。だがそれよりも、あの場所はソフィにとって何より落ち着く場所だった。アスベルと初めて出会い、リチャードと三人で友情の誓いをし、七年後再会したあの場所には、小さな胸にはしまいきれぬほどのたくさんの思い出が詰まっている。
「ソフィがいいなら、俺もそれでいいよ」
ソフィの頭を撫でるアスベルの手が、愛しさと優しさを含む。ソフィはこんなふうに撫でられるのが好きだった。アスベルは自分に見返りの求めない愛を注いでくれているのだと――ソフィはずっとここにいても良いのだと、その度教えてくれている気がしたから。
胸の躍る気持ちを抱きながら、ソフィは穏やかな笑みを浮かべていた。
「――変わらないな」
裏山の花畑を見て、アスベルの口からふと漏れ出た言葉。アスベルと手を繋いでいたソフィは、立ち止まったアスベルの横顔を見上げた。
確かにその風景は、アスベルと初めて出会った頃と何ら変わりない風景だった。ふつう、時間を重ねるごとに、その風景や人々は移り変わるものだ。みんな変わってしまった、と長い睫毛を伏せて呟いていた、二人の良く知る人物のことを思い浮かべる。変わることで、新たに生まれる物もある。だが、それと同時になくなってしまう物もある。“変わらない”という事実は、今のアスベルに安堵を与えているのだと、ソフィは悟った。友情の誓いの木を見ながら目を細めるアスベルのあんな穏やかな顔を、ここ最近見たことがあったろうか。
「アスベルは、変わらない方が嬉しい?」
ソフィが問うと、アスベルはこちらを見て意外そうに目を見開いた。顎に手を当て、軽く考えるような仕草をした後、躊躇うように言葉を紡ぐ。
「……そう、だな……その方が嬉しいとは、一概に言えないけど……ただ、安心、してるんだろうな。ソフィやリチャードと出会ったあの頃のまま、自分も変わっていないと思える気がするから」
やはり、彼の胸を占めているのは安堵だった――確信を抱きながら、ややあって、ソフィも胸の内を零す。
「わたしも。ここは昔と同じ、美しいまま。だから、安心する」
「そうだな。俺はこういう風景を守っていきたいのかもしれない、領主として」
ソフィの手を握るアスベルの手に力がこもる。彼の決意の表れなのだろう。ソフィはそのまま、穏やかな色を宿したアスベルの瞳を覗き込んだ。僅かな間の後、アスベルが視線に気付いてこちらを向く。
アスベルの瞳。その奥に、美しいラントの裏山の風景が映る。風に揺れる一輪一輪の花の動きすらも見えて、ソフィは思わずその風景に見入った。
胸に流れ込んでくるこの安堵の気持ちは何なのだろう。ラムダを宿したアスベルの瞳を介して見るこの風景が、いつもと違うふうに映るのはどうしてだろう。
ある瞬間、ソフィは鋭く息を呑んだ。
――そうか。
ソフィはそこで、ようやく悟る。
――わたしは、ここに住みたかったんだ。
アスベルの目に映る、美しい世界に。彼が守りたいと願った、この美しいラントの地に。
アスベルの瞳の中に、自分の姿が映る。海の底よりも深い安堵を覚えて、ソフィは思わずアスベルに抱き付いていた。目を閉じても、先程の風景は鮮明に瞼の裏で蘇る。
「ソフィ?」
戸惑いつつも優しく受け止めてくれるアスベルの腕に、いつまでも抱きしめられていたい――ソフィは心の中で指を組んで、祈りを捧げた。