清らかなるもの

 放課後、土浦は屋上へ続く階段を上っていた。
 土浦は普通科のエントランスや、森の広場、正門前といった人の多い場所が好きで、いつもならそこらでぶらぶらしているのだが、今日はそういう気分ではなかった。人から離れて一人になりたい、そんな気分だったのだ。
 練習室へ行くことも考えたが、音楽科の生徒で予約がいっぱいな上、閉鎖された空間では息が詰まる。
 そんな土浦の今の心情に一番適した場所、それが屋上だった。実に開放的で、春から夏にかけてのこの時期、特に心地よい日差しがさんさんと降り注いでいる。
 階段を昇り終わり、屋上への扉に手をかけた、その時だった。
 扉の向こうから、優しげな音が流れてきたのに気付いて、土浦は思わず手を止めていた。よく耳を澄ませると、それはどうやらクラリネットの音のようだった。まるで綿のようにふわふわと柔らかく、しかし浮いたばかりでもない、落ち着いた音。この音を、土浦は以前聞いたことがあった。それは、前回の、第一回目のセレクションの時だ。
 ――冬海?
 土浦は思い出していた。目を伏せ、不安げな表情を隠せないまま、小さな口でクラリネットを吹いていた少女のことを。いかにも危うげで、見ているこちらまで落ち着かない気持ちになってくるほどだった。
 だが、そんな気持ちを、土浦はいつの間にか忘れていた。彼女の奏でる柔らかな旋律に、夢中になっていたのだ。
 まるでしゃぼん玉のようだと、土浦は思った。触れると壊れてしまいそうなくらい脆いが、優しく美しく浮き上がり、目を楽しませてくれるしゃぼん玉。幼い頃、しゃぼん玉を覗き込んで空に憧れた気持ちを、土浦は思い出していた。
 その冬海が今、屋上で練習をしている。
 土浦は迷った。いや、本当は迷う必要などないのだ。冬海がいようがいまいが、練習をしてようがしてまいが、土浦には関係ない。さっさと屋上へ出て、自分の時間を楽しめばよい。
 だが土浦はそうできなかった。自分が現れたせいで、冬海の演奏が曇るのが怖かった。
 自分がただでさえ強面で大柄なことを、土浦は自覚していた。それに、日野に聞いた話によれば、冬海は近くを男子が通っただけで逃げるほど、男を怖がっているというのだ。土浦が出て行けば、彼女は怯えるだろう。そして、ここから逃げていってしまうだろう。
 土浦は深呼吸をして、もう一度耳を澄ませた。扉越しに、旋律が土浦の耳に運ばれてくる。土浦は思わず目を閉じていた。クラリネットの音がしんと、心にまで響き渡っていく。
 次のセレクションで弾く曲だろうか。そうだとすれば、実にテーマ通りの曲だと思う。「清らかなるもの」、それが第二セレクションのテーマだったはずだ。
 冬海の奏でる音はいつも、森の中を流れる清流のように、澄んだ音をしている。透明で、曇りや穢れが一切ないのだ。聴いているだけで、土浦は心が洗われる気がした。嫌なことや抱えている鬱々としたものが全て、取り払われていくようだった。
 ――ああ……
 もっと彼女の音を鮮明に聴きたい。その欲望が、土浦を動かした。
 土浦は思わずドアノブに手をかけ、重い金属の扉を開けていた。
 ギィと軋む音がして、土浦の前が一気に明るくなる。
 土浦は辺りを見回した。そこでやっと、クラリネットの演奏が止んでいることに気がついた。
 ふっと左の方を見ると、冬海が怯えた目で土浦を見つめていた。
 それだけで、土浦の心は、幾分か傷ついた。同時に、今まで清らかになっていたはずの心に、怒りや悲しみといったマイナスの感情が現れてきて、土浦は思わず冬海の方へ歩き出していた。
「どうして、やめるんだ?」
 彼女の演奏を中断させてしまったのは自分だ。そう頭で分かっていながら、土浦は冬海を責める言葉を口にしていた。
 冬海の唇が微かに震えた。何か言おうとして、言えないでいるようだった。穢れのないはずの彼女の瞳は、土浦への怯えで曇っていた。
「俺のことが、そんなに怖いか?」
 我ながら、氷のように冷たいと思うほどの声が出た。冬海がひくりと息をのむのが聞こえた。
「あ、い、いえ、そんな……」
「じゃあ、なんで、そんな怯えたような顔をするんだ」
「あの、す、すみません……」
 冬海が小さく頭を下げる。土浦は怒りの矛先を彼女に向けるべきでないと分かっていたが、怯えられて悲しいと思う気持ちが、自然と怒りに変わっていた。
 土浦は女という生き物が苦手だ。優しく扱うとか、気の利いた言葉をかけるとか、そういうことを女は喜ぶらしいが、土浦の性には合わない。
 そういう意味で、冬海はまさに、土浦の苦手な人間のタイプであるといえた。おっかなくて、近寄れない。それが第一印象だった。下手に触れて彼女が壊れてしまうことも耐えられないし、壊れないように上手く扱うことも、土浦にはできそうになかったからだ。
「どうすりゃいいんだ、俺は……」
 思わず独り言が口から飛び出していた。冬海は一層びくりと震え、謝った。
「ご、ごめんなさい……わたし……」
「もう、いい」
 何もかもが面倒になって、土浦はぶっきらぼうにそう言った。冬海はまた、すみません、と消え入りそうな声で言った。それがまた、土浦の罪悪感を増大させたが、土浦はもう彼女を責める気は失せていた。
「それより、あれ、次のセレクションの曲か」
 土浦が言うと、冬海がえっ、と顔を上げた。
「だから、さっき吹いてた曲」
 冬海は微かに目に戸惑いの色を宿した後、こくりと頷いた。
「は、はい。まだ、練習中なんですけど……」
「綺麗な、いい曲だな」
 土浦は素直にそう言った。冬海は戸惑いの色を一層強くして、土浦を見つめた。
 戸惑いで見つめられるのもさほどいい気はしないが、それでも怯えよりよっぽどいい。
「あ……ありがとう、ございます」
 冬海はまた、ぺこりと頭を下げた。彼女の口から謝り以外の言葉が出てきたことで、土浦の心が幾分か安らいだ。
「邪魔して、悪かったな」
 謝罪の言葉が、すっと口から飛び出した。冬海は驚いたように目を丸くした後、小さく首を横に振った。
「俺はお前のような演奏はできないし、そういう解釈もいまいちよく分からない。だが、いいものは、いいと思う」
「あ……」
 自分の心の内を、土浦は冬海の前でさらけ出した。あまり自分の気持ちを人に伝えるタイプではないのだが、今、土浦は、それを冬海に伝えなければいけないような気がしていた。
 彼女はきっと、言わなければ分からない。土浦が彼女の演奏を、そして彼女の音をどう思っているか――
 だが、言おうとして、何かの感情が土浦の喉を塞いだ。土浦は冬海から微かに視線を逸らした。
「それだけだ。じゃあな」
 土浦はそれ以上何も言わず、くるりと背を向けた。屋上で自分の時間を過ごすという目的は完全に消え失せていて、今はただ、冬海の邪魔をしたくないという思いだけが、心の中を占めていた。
 屋上の扉を開けながら、ちらりと冬海に視線をやる。冬海は戸惑った様子で土浦を見ていたが、目が合った瞬間、驚いたように体を波立たせた。土浦は微かに笑うと、屋上の扉を閉めた。
 視界がやや暗くなり、土浦の目の前には無機質な階段だけが残される。
 ――練習室にでも、行くか。
 今空いているかどうかは分からないが、無性にピアノを弾きたい気分になっていた。
 土浦はそう決めて、階段を静かに下りて行くのだった。
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