昼休み、冬海は普通科の校舎に足を踏み入れていた。音楽科の冬海にとって、そこは未知の領域だ。自分とは違った制服に身を包んだ、見知らぬ生徒たちに戸惑いながら、冬海は二年生の教室がある場所を目指した。
手には軽い紙袋と、その中に入っている小さな三つの箱。今日はバレンタインデーで、その袋の中身はもちろんチョコレートだった。昨日、母親の手ほどきを受けながら、自分で頑張って作ったものだ。
二年生の教室が並ぶ廊下まで来て、冬海は不安げにきょろきょろと辺りを見回した。教室の扉の上に掲げられている表示を見て、渡す相手の教室を見つけようとした。
だがその前に、突然肩をぽんと叩かれた。
「やっ、冬海ちゃん!」
「きゃっ!」
冬海はびくりと肩を震わせ、驚いて振り返った。
「あ、ごめんごめん。驚かせるつもりはなかったんだけど」
そう言って明るい声で謝ってきたのは、天羽菜美だった。
彼女は報道部に所属していて、学内コンクールに出場していた冬海は、何度か彼女の取材を受けたことがある。その縁で親しくなり、天羽は冬海にとって数少ない、心を許せる相手となっていた。
冬海はほっとして息をつき、笑顔を見せた。
「天羽先輩、こんにちは」
「冬海ちゃんが普通科の校舎に来るなんて珍しいね。何かあったの?」
「あ……はい。天羽先輩に、お渡ししたいものが……」
「わたしに? なになに?」
興味津々の天羽の視線を受けながら、冬海は三つのうちの一つの箱を取り出す。目立つオレンジ色の包装紙。いつも朗らかな天羽に、ぴったりの色だと思って選んだものだ。
「あっ、あの、これ、バレンタインデーのチョコレートです」
「わたしに? 嬉しい、ありがとう冬海ちゃん!」
天羽はそれを受け取って、にっこりと笑った。同時に冬海の緊張した心もほぐれ、自然と頬が緩む。
「最近流行ってるもんねー、友チョコ。わたしも作れば良かったかな」
やや惜しそうな声で、天羽は言った。
その時、天羽の視線が、冬海の持っている小さな紙袋の中にいった。残りの二つの箱は、燃えるような真っ赤な包装紙に包まれたものと、森林を思わせる深い緑色の包装紙に包まれたものだった。
即座に、天羽はそれらを指差して尋ねてきた。
「冬海ちゃん、もしかしてその二つも渡しに来たの?」
「あ、は、はい」
「そうなの!? 誰、誰? 男子?」
天羽に詰め寄られて、冬海は戸惑いながらも口を開く。
「あ……ええと、赤いのが、日野先輩のチョコレートで……」
「香穂? あっ、ちょっと待ってて、香穂ー!」
天羽はすぐ隣のクラスに顔を突っ込むと、大きな声で、日野の名前を呼んだ。天羽はもちろん、その近くにいた冬海も同時に注目を浴びることになり、冬海はおろおろしたが、天羽が叫んでくれたおかげで、日野は廊下へ出てきてくれた。
「どうしたのよ? いきなり大声出したりして」
「ほら、香穂、冬海ちゃんが香穂に渡したいものがあるんだって!」
天羽は冬海の後ろに回って、冬海の肩を掴んだ。未だ疑問を浮かべた表情の日野を前に、冬海はやや緊張した面持ちで、赤い包装紙の箱を差し出した。
「あの、日野先輩、これ、バレンタインデーのチョコレートなんです」
「えっ、本当に? 私に?」
驚いたように日野は尋ね、冬海はこくりと頷いた。その途端、日野は嬉しそうな笑顔をして、それを受け取った。
「ありがとう、冬海ちゃん! すごく嬉しいよ」
「良かったね、冬海ちゃん!」
天羽がぽんぽんと肩を叩き、冬海も笑みを浮かべてはい、と頷いた。
しばし幸せな気分に浸った後で、そういえば、と天羽は気付いたように手を打った。
「あと一つ、誰の分なの? まさか冬海ちゃん、自分の分とかじゃないよね?」
冬海ははっとなって紙袋の中を見た。確かにあと一つ、深緑色の包装紙の箱が残っている。
「いっ、いえ、違います……」
天羽の言葉を否定した後で、渡す予定の人物の顔を思い浮かべ、冬海は微かに顔を赤らめた。するとそれに気付いたらしい日野が、にやりと笑った。
「それ、男の子に渡すの? もしかして」
「えーっ、やっぱりそうなの?」
一気に二人の声のトーンが高くなった。相手は誰なのかと詮索の目を向ける二人から、冬海は恥ずかしくなって顔を伏せる。
深緑の包装紙。彼にぴったりだと思って選んだ色だ。荒々しくもあるが情熱的で深みのある演奏をする彼と、その包装紙が重なって見えたとき、冬海はこの色にしようと心に決めていた。
「誰なの? 教えてよ冬海ちゃんー!」
「ね、誰にも言わないから!」
二人の先輩に囲まれて、冬海は何も言うことができず顔を俯ける。
だがその時、上から降ってきた声に、冬海は心臓が止まるくらい驚いた。
「おい、そこ。通行の邪魔だぜ」
冬海は反射的に振り返っていた。
まさか。だが、そのまさかが的中した。天羽の後ろに立って、土浦梁太郎は三人を見下ろしていた。
あまりの偶然に言葉が出てこない。冬海が土浦を見上げたままおろおろしていると、天羽は冬海の肩を持ったまま、さっと通路の端へ移動した。
「ごめんごめん、気付かなくって」
「さっきもお前、大声出してたろ? だいぶ注目浴びてたぜ」
天羽に向かって、土浦は挑発的な視線を投げる。だが天羽は全く物怖じせず、何でもないことのようにあっさりと答えた。
「ま、あれくらい言わないと聞こえないかと思ってさ。効果抜群だったでしょ、香穂?」
「まあね」
日野はやや呆れたように笑った。土浦も呆れた様子で、やれやれ、と首を振る。
その後、天羽が思い出したように、土浦に思いがけない質問をした。
「あっ、そうだ。土浦くん、チョコレートとかもらった?」
冬海はびくんと肩を震わせる。土浦に渡そうと思っていた冬海にとって、直球ど真ん中の質問だ。もし、土浦が既に他の女子からチョコレートをもらっていたら――有り得ない話ではないだけに、冬海の心臓が波立つ。
だが、土浦から返ってきたのは、やや外れた答えだった。
「はあ? チョコレートって……なんでだ?」
「知らないの? 今日はバレンタインデーなんだよ!」
日野が言うと、土浦はくだらないとでも言うように鼻を鳴らした。
「そんな行事、俺には関係ないね。ほんと、女は面倒な行事が好きだな」
それを聞いた瞬間、冬海の心臓は跳ね上がり、日野と天羽の表情が険しくなった。
「ちょっと、土浦君!」
「そういう言い方はないんじゃない?」
日野と天羽は冬海を庇うようにして、土浦に抗議してくれたが、冬海は相当なショックを受けていた。
土浦が女という生き物を苦手としていることは、日野や天羽に聞いてなんとなく知っていた。だが、こんな場所で直接それを言葉にされるとは思ってもみなかったのだ。土浦にその意図がないとはいえ、土浦の発言は冬海の先程までの行動を全否定している。
緊張で高揚していた心が一気にどん底にたたき落とされ、冬海の唇が震える。土浦と天羽、日野の間で交わされるやりとりも、廊下の喧噪も、冬海の耳には入らなくなっていた。
「ごめん……なさい」
ぽつり、と呟く。
そのか細い声に気付いた天羽が冬海の方を振り返ったとき、冬海は走り出していた。これ以上この場に居続けることが耐えられなかった。
「あっ、ちょっと、冬海ちゃん!」
日野と天羽の声が追いかけてきたが、冬海は立ち止まることなく、その場を走り去った。その瞳に、涙を浮かべながら。
普通科の廊下を抜け、エントランスをくぐり抜け、冬海はいつの間にか、校舎の外に立っている大きな木の下まで来ていた。
校舎から見えないように、そっと木の裏へ回る。そして、木に背をもたせかけ、大きくため息をついた。
やはり、無理だったのだ。土浦は女が苦手で、更に言うと、冬海は土浦の苦手なタイプでもある。そんな自分が想いを告げたところで、きっと土浦にとっては迷惑なだけだろう。
はじめは、冬海も土浦を苦手視してしまっていた。その大きな身体や、ぶっきらぼうな物言いに、怖じ気づいていた。だが、彼の演奏を聴くことで、その印象は変わった。その荒々しさの中に、密かな優しさが込められているように感じた。土浦がピアノの練習をしている時、冬海は部屋の外で、足を止めて聴き入るようになった。
気付いたときには、土浦のピアノの音、それを通じて伝えられる彼の人柄に、どうしようもなく惹かれてしまっていたのだ。
バレンタインデーという行事を利用すれば、自分でも土浦に想いを伝えられるのではないか――そう思ったが、甘かったようだ。
紙袋の中に残った一つの箱を見つめ、冬海はどうしようもなく悲しくなった。涙が溢れそうになって、ぐっとこらえる。
だがその時、荒い息と足音が近づいてくるのが聞こえ、冬海はびくりと肩を震わせた。
こんな姿を、たとえ知らない人であっても誰にも見られたくない。どうか見つかりませんように、と目をぎゅっと閉じて願った時、その足音の主の声を聞いて、冬海は飛び上がりそうになった。
「……ったく、どこ行ったんだ、冬海のヤツ」
間違いなく土浦の声だった。どうやら自分を追ってきたらしい。あの状況で勝手に逃げ出したのだから、無理はないかもしれないと思いながら、冬海はどうするべきか悩んだ。
このまま出て行って、当初の目的通り土浦にチョコレートを渡すべきか。それとも見つからないようにして、逃げ切ってしまうか。
顔を伏せた冬海の目に、再び深緑色の包装紙が飛び込んできた。
チョコレートを作りラッピングしている時、冬海は幸せだった。土浦に、少しでも喜んでもらえれば。その思いだけで、チョコレートは作られていたのだ。
このまま逃げてしまったら、自分のその思いが全て無駄になってしまう。
そう思った時、冬海は決断していた。
くるりと体を翻して、冬海は表へ回った。土浦の姿が見えた時、一瞬怖じ気づいてしまったが、慌てて首を振って、その思いを消した。
「あ、あの……」
土浦先輩、と呼びかけようとして、それだけ言うのが精一杯だった。それに気付いた土浦は、驚いたように冬海の方を振り返った。
「な、なんだ、冬海か。おどかすなよ」
「す、すみません。あの、わたし……」
そこまで言って、冬海の言葉が止まった。
チョコレートの箱を差し出して、土浦先輩のチョコレートです、と、ただそう言えば良かった。だが、あらゆるものが、冬海の行動を邪魔した。恥ずかしさ、足りない勇気、そして恐怖――。
冬海がおろおろしていると、土浦が頭の後ろを掻きながら、口を開いた。
「あー、その、冬海。さっきは、悪かったな」
「えっ……?」
てっきり怒鳴られるかと思っていたら、謝られ、冬海は戸惑った。土浦は言いにくそうに目を逸らしながら、言葉を続けた。
「さっきのことだよ。俺が、面倒だとか何とか言ったから……その、バレンタインデーってやつが」
「あ……」
「日野と天羽に怒鳴られたんだ。冬海が逃げたのは、俺のせいだって。だから……悪い、謝る」
土浦がこんなふうに自分に謝るとは予想もせず、冬海は戸惑った。何と返せばいいか分からなかった。
冬海が何も言えずにいると、しばらくしてから、再び土浦は口を開いた。
「じゃあ、俺、行くぜ。悪かったな」
そう言って、土浦は体を翻した。
冬海は焦った。このままでは、土浦は普通科の校舎へ帰ってしまう。今渡せなければ、ずっと渡せないままのような気がした。勇気を出して土浦と対峙したというのに、これではその勇気が無駄になってしまう。
「あ、あの、土浦先輩!」
冬海は自分の出せる限りの声で土浦を呼び止めた。土浦は驚いたように振り返った。
「なんだ?」
「あ、あの、その……」
冬海は真っ赤になりながら、最後の一つの箱を取り出した。そして土浦の顔を見上げ、それを差し出した。
「あの、これ、土浦先輩に……」
「俺に? ……マジかよ?」
目を丸くして、戸惑った様子ながらも、土浦はそれを受け取った。その間ずっと、冬海の耳には、心臓の脈打つ音がどくどくと響いていた。
「これ、もしかして……」
「は、はい。チョコレート、です」
そこまで言い切って、冬海は思わず顔を伏せてしまった。土浦の次の反応が怖くてならなかった。突き返されたらどうしよう。拒否されたらどうしよう。不安な思いばかりが、頭をよぎる。
だが、土浦が次に取った行動は、そのどれでもなかった。土浦はおずおずと、冬海に尋ねてきた。
「なあ、さっき、天羽と日野に言われたんだが……」
「え?」
冬海が思わず顔を上げると、土浦は決まり悪そうに目を逸らした。
「これを渡してくれたってことは、つまり……そういうことなのか?」
「あ……」
そういうこと、の指す意味が、冬海にも分かった。土浦に自分の気持ちを知られたこと、それはこちらから行動した結果であったけれども、気恥ずかしい気持ちがどっと襲ってきた。
「あの、わたし……」
唾を飲み込み、冬海は言った。
「土浦先輩のことが、好きです」
思ったよりもはっきりとした声が、冬海の口から出た。土浦ははっと目を見開いた。
相変わらず、心臓の鼓動は大きくなったまま収まらない。顔は真っ赤で、今にも発火してしまいそうだ。足が震え、冬海は何度も逃げたくなった。だが、逃げられなかったし、逃げたくもなかった。
間を置いて、土浦が戸惑い気味に口を開いた。
「いいのか? 俺で……お前、男が苦手なんだろ?」
土浦の言わんとすることは理解できた。男の苦手な冬海が、自分のような大柄で荒っぽいイメージの男を選ぶなんて、想像もしなかったのだろう。それは冬海とて同じだった。
冬海は首を横に振って、言った。
「土浦先輩の音が、好きなんです」
「俺の音?」
「とても情熱的で、優しさを秘めていて……だからきっと、わたしが誤解していただけで、土浦先輩は優しい方なんじゃないかって思ったんです」
土浦の前で、ここまですらすらと言葉が出てきたのは初めてだった。土浦もやや驚いたようだ。
「俺のこと、そんなふうに思ってたのか」
「は、はい……」
頷いた後、冬海はたまらなくなって、思わず俯く。
その時、冬海の頭の上に、ぽん、と優しく手が置かれた。それは間違いなく、土浦の大きな手だった。初めて自分の体に触れられて、冬海の顔がますます熱くなった。
「ありがと、な。俺もお前のこと、誤解してたみたいだ。お前がそんなふうにはっきり物を言うなんて、思わなかった」
土浦が手をどけると、冬海はゆっくりと顔を上げ、土浦の顔を見た。土浦の顔は、いつも見ていた険しい表情から一転、優しい笑みを浮かべていた。思わず、心臓が高鳴った。
「俺も前から、お前が気になってたんだ。でも怖がられるかと思って、近づけなくってな」
「す、すみません……」
「もういいんだよ。それより、お前のことをもっと知りたい」
土浦はそう言うと、冬海の髪に触れた。土浦のごつごつした手の中で、冬海のさらさらとした髪が流れていく。
「お前の音、俺にも聴かせてくれ」
「は、はい……」
冬海は土浦につられるように微笑み、頷いた。
ちょうどそのとき、校内に響き渡ったチャイムを聴いて、土浦は惜しむようにもう一度冬海の髪を撫でた。
その感触は、驚くくらいに優しくて心地よかった。