「土曜日、空いてるか。一緒に練習しないか?」
そう言って冬海を誘った時、戸惑った表情を見せるわけでもなく、ためらうような仕草をするでもなく、微笑みながら頷いたのが、強く印象に残っている。
冬海笙子は内気で大人しいタイプの少女だった。初めは、土浦も随分警戒されたものだ。目が合ったらその瞬間に逃げられ、話しかけると必ず顔を伏せられ、土浦もそんな彼女の態度を、不快に思ったこともあった。
だが、彼女の演奏には、自分をどうしようもなく惹き付ける何かがあった。自分にはないものを、彼女は持っていた。清らかで澄んだ、冬の青空のような音色。その音色は、彼女が練習室にこもって練習している時にだけ聴ける、極上の音楽だった。
何故その時にしか聴けないのかというと、彼女は人前に出るとあがってしまって、彼女が本来持つ力を発揮できなくなるタイプだったからだ。そのことに彼女自身も気付いていて、自分の演奏を疑いながらクラリネットを吹いているから、聴衆にもそれが自然と伝わってしまう。そういう悪循環に陥っていた。
その悪循環を断ち切るきっかけとなったのが、講堂での出来事だった。人前で吹くのが苦手だった冬海が、講堂のステージの上に一人で立ち、クラリネットを吹いてみせた。その姿は実に堂々としていて、練習室で聴けたあの極上の音楽が、講堂中に溢れた。
もしかしたら、そのことがあったせいかもしれない、と土浦は思う。休日に外で練習すると言ったのに、あんなふうに微笑んで見せたのは――
当日、土浦は冬海と駅前で待ち合わせをしていた。電車から降りてきた冬海を見て、土浦は軽く手を挙げて合図した。
「よう。来たな」
「あ……すみません、お待たせしてしまって……」
「いや、俺も来たところだ。さて、今日はどこで練習する?」
臨海公園か、森林公園か。駅前の広場という選択肢もあったが、冬海がそれを選んだことは一度もなかった。だから冬海が選ぶとすれば、その二つのうちのどちらかだろう、と勝手に思い込んでいた。
だが、冬海は少し迷った様子を見せた後、顔を上げてはっきりと言った。
「その……ここの広場で、いいです」
土浦は思わず目を丸くした。そのまま、あまりの驚きに、しばらく固まってしまった。
「つ、土浦先輩?」
冬海に名前を呼ばれて、はっとする。いや、と首を振って、先程受けた驚きを、そのまま口にした。
「まさかお前が、ここがいいって言うと思わなかった」
「あ……あの、いけなかったでしょうか……」
「いや、そういうわけじゃない。ただ、ここ、人通りが多いだろ。そんな場所で練習して、平気なのか? お前」
土浦が尋ねると、冬海が戸惑ったように、微かに視線をさまよわせた。
「そ、それは、少し、不安です……でも」
「でも?」
「人に聴いてもらう練習をしなきゃって、思って……そうすれば、本番でも、あがらないで演奏できるかなって、思ったんです」
冬海の表情は真剣だった。
苦手で今まで避けていたことを、冬海は克服しようとしている。そんな彼女の姿に、成長を感じずにはいられなかった。そして、無性に嬉しくなる。
土浦は自然と、手を冬海の頭の上に載せていた。くしゃりと頭を撫でてやると、冬海は戸惑ったようにあっ、と声を洩らした。
「つ、土浦先輩……」
「あ、嫌だったか?」
「いえ、そういうわけじゃなくて……突然だった、から」
土浦の真意を知りたい、というように視線を向けてくる冬海に、土浦はふっと微笑みながら話す。
「なんか、お前が成長してるような気がして、嬉しくなってきてな。思わずお前の頭、撫でたくなったんだよ。苦手を克服するのは必要なことだ。音楽でもなんでも、そうだがな」
「はい」
冬海はやっと安心したように笑みを見せた後、思わぬことを言った。
「でも、そんなふうに思えるようになったのは……先輩のおかげです」
「俺のおかげ?」
「先輩が、わたしに初めてくださったものが、勇気だったから」
「勇気……」
そんなことがあっただろうかと、土浦は過去の出来事に思いを巡らす。こうして休日を一緒に過ごすようになるまで、冬海と接したことなど数えるくらいしかない。その数えるしかないくらいの出来事の内に、冬海に勇気を与えたことなどあったろうか。
考え込んでいると、冬海が言った。
「森の広場で、私が男の子にしつこく言い寄られていた時……土浦先輩、言ってくださいましたよね。はっきり言わなきゃ、だめだって」
「……あ」
そう言われて、土浦はやっと思い出した。
いつだったか、昼休みに森の広場で、冬海が同じ一年の男に絡まれているのに遭遇したことがあった。冬海はその性格上、はっきりと断ることもできず、おどおどとしているばかりだった。土浦はお節介かと思いつつも、二人の間に割って入り、男を追い払ったのだ。「嫌ならはっきり言わないと駄目だ」と、冬海に言いながら。
その時は諭すようなつもりはなかったのだが、冬海は数日後、男に対してはっきり断ることができたと土浦に報告した。その時の冬海に、以前のようなおどおどとした様子は見られなかった。むしろ、恐怖の対象であっただろう土浦にも臆することなく、微笑みながら話をしてくれた。それは小さなことではあったが、土浦は嬉しくなったのを覚えている。
「それで、なのか? お前の音色が吹っ切れて、変わったのは」
「そうなんだと、思います。それから、先生にも音色が変わったねって言われましたし」
冬海は頷く。土浦の心に、優しい嬉しさがこみ上げた。自分が冬海に良い影響を与えられたなら、これほど嬉しいことはない。
冬海は胸に手を当てて、噛みしめるような表情をした。
「だから、先輩にいただいた勇気を出して、今日はここで練習をしたいです」
「よし」
土浦は大きく頷くと、持ってきたキーボードの準備を始めた。冬海もクラリネットを取り出し、くわえたり指を動かしたりして、感覚を確かめ始める。
キーボードのセッティングが完了したところで、鍵盤に指を添え、土浦は冬海の方を振り返った。
「冬海。いいか?」
「はい」
冬海がクラリネットをくわえたのを確認して、土浦は伴奏を始める。
楽器から音が発せられた途端、駅にいる多くの人々の注目を浴びた。痛いほどに視線が突き刺さる。それでも、その視線を、今は心地よいと思えた。
土浦は力一杯弾いた。指は驚くほどに滑らかに動き、調子はすこぶるいいようだった。
隣にいる冬海の様子を窺うと、冬海も臆することなく、極上の音楽を広場中に、そして晴れた空に向かって届けていた。
「ブラボー!」
演奏を終えた瞬間、人々の拍手が響き渡った。土浦は笑って冬海の方を振り向き、冬海も少し驚いたようだったが、すぐに微笑みを浮かべた。自分たちの音楽は、人々に受け入れられたのだ。そのことがこんなにも嬉しいことだったなんてと、土浦は改めて感じていた。
「良かったな。冬海」
「はい。本当に、良かったです」
胸に手を当てて、冬海も喜びをかみしめているようだった。
人々のブラボーが止んだところで、土浦はキーボードを片付け始めた。片付けながら冬海に、そっと尋ねた。
「なあ、冬海。この後、時間あるか?」
「あ、はい。大丈夫ですけど……」
「どこか、寄って行かないか?」
気恥ずかしい思いもあったが、土浦は思い切って冬海を誘った。冬海は小さく驚きの声を上げたが、すぐに頷いてくれた。
「はい。あの、土浦先輩さえ、良ければ……」
「嫌だったら、誘うわけないだろ」
土浦はキーボードの片付けを終えて、冬海の方を振り向く。
「さて、どこに行くかな。行きたいところはあるか?」
「あの、じゃあ……臨海公園に行きませんか?」
「ああ、いいな。じゃあそうするか」
それぞれの楽器を持って、穏やかな微笑みを浮かべながら、二人は歩き出した。
二人の間には、先程の演奏で生まれた音楽の喜びが、今もなお溢れ続けていた。