炎の絆
#2 揺らぐ心

 いつもいつも、頭に浮かぶのは彼のことだけ。
 今頃どうしているのだろうか。
 元気にしているだろうか。
 怪我をしていないだろうか。
 彼の顔を浮かべながら、毎日繰り返される質問。


 ジャスミンはジェラルドの後ろ姿が忘れられずにいた。
 『仕事がある』と言って、一人で去っていってしまった彼の後ろ姿がどこか切なくて悲しくて、思い出すたびに胸が痛んだ。
 日課となっていたはずの家事もはかどらず、時折家族に注意されてやっと我に返る、ということが頻発し始めた。最初は家族もただぼうっとしているのかと思っていたようだが、多くなるたび、首を傾げ始めた。
 そしてとうとう、ジャスミンは家事が手に着かなくなってしまった。何かあるのだろうと案じた母が、「しばらく休んだ方がいいわ」とすすめてくれ、ジャスミンはそれに甘えることにした。完全に自室に引きこもるのではなく、たまに外へ出たりと普通の生活を送っていたが、ジャスミンの頭の中は常にジェラルドのことで一杯だった。
 本当は彼が出て行ってから一週間しか経っていないのに、もう一年も経ったような気がする。
 それほど、一日はジャスミンにとって長いものになってしまった。




 ある日、ジャスミンがいつものように朝食を食べ終えた後、扉をノックする音が聞こえた。
 家には今誰もいないため、ジャスミンは足取り重く玄関へ向かう。
 扉を開けて、ジャスミンは訪ねてきた人物を確認した。その瞬間、あっと声を上げた。
「メアリィ! メアリィじゃない!」
「お久しぶりですわ、ジャスミン」
 そう。その客人とは、メアリィのことだったのだ。
 メアリィとは、ジャスミンと同じ八英雄の一人である。マーキュリー灯台を代々守る一族であるマーキュリー一族の末裔で、そのそばにあるイミル村の神官でもある。メアリィの父が前代の神官で、メアリィは今もその役を受け継いでいる。
 柔らかな微笑みに、肩からすらりと落ちる透き通った青い髪。その姿は天使とも呼ばれ、イミル村の人々からは昔も今も大変頼りにされている少女だった。
 そのメアリィが、わざわざ自分の家にまで訪ねてきてくれたらしい。
 とりあえず家に上がってもらい、お茶を入れる。メアリィが来てくれた嬉しさがこみ上げ、ジャスミンは久しぶりに笑顔を見せた。
 テーブルにメアリィと自分の分のお茶を用意し、メアリィの向かいに座った。それを見計らったように、メアリィはにっこりと微笑んで口を開いた。
「今日はハイディア村の復興をお祝いしに来ましたの。ロビンから聞いて、是非一度伺わないとと思っていたのです」
「そうだったの……ありがとう、メアリィ。大変だったでしょ? イミルからここまで来るなんて……」
「ええ、でも大丈夫。何度かこちらには伺っていますもの」
 そんな風に、二人は久しぶりに会話を交わした。彼女はハイディア再建中もロビンに会いには来ていたようだったが、ジャスミンと顔を合わせることはなかった。だから、こうして会うのは今が久しぶりだ。
 メアリィは相変わらず綺麗だ。何気ない仕草なのに、どこか誘っているようにさえ感じる。ロビンが惚れるのも無理ないわね、とジャスミンは心の中で思った。ロビンは昔から女性にはあまり関心がなかったようだが、今は仲間内で有名なほどメアリィ一筋である。
 時々カップを傾けてお茶を飲みながら、二人の話は弾んだ。
「メアリィ、ロビンとは上手くいっているの?」
「ええ。今日も会って帰ろうかと思っていて……」
「そうなんだ……」
 ジャスミンがそう言ってふとメアリィの手首に視線を落とした時、メアリィの手首に何かがつけてあるのが見えた。それは? と尋ねるジャスミンに、メアリィは袖をめくってそれを見せてくれた。
 それは銀の腕輪だった。シンプルなつくりで装飾品はなく、ぴかぴかに磨いてあり、新品のようである。
「これ、私の誕生日にロビンからいただいたものなんですの」
 ジャスミンは驚く表情をした後、笑った。メアリィの腕にはまっている腕輪を見ながら嬉しそうに言う。
「ロビンからなの? ロビンもなかなかやるわね。ジェラルドとは――」
 大違いだわ、と言いかけ、ジャスミンは思わずはっと口をつぐんだ。ここでジェラルドの名が出てくるなんて、自分でも予想もしていなかった。
ジェラルドの名が出てきたのを受けて、メアリィがそうでしたわ、と思い出したように言った。
「ロビンからジェラルドが村長になったって聞いたんですけど、本当なんですの? 私、それもお祝いしたいと思って……ジェラルドは、どこに?」
 その質問が来た途端、ジャスミンはぴくりと肩を震わせた。
 静かに口を閉じ、顔を俯かせる。
 メアリィと談笑していた時には、ジェラルドのことを忘れて気が楽になっていたジャスミンだったが、そこで思い出した上にとどめの質問もされてしまった。メアリィに本当のことを話すのは、自分でもう一度事実を認めてしまうようで辛かった。
 ジャスミンの様子に気づいたメアリィが、怪訝そうにジャスミンの顔を覗き込んだ。
「ジャスミン、どうかしましたの? お顔が真っ青ですわ……」
「う、ううん。なんでもないの……」
 そう言ってメアリィに無理矢理作った笑顔を向ける。だがその笑顔はあまりにも不自然で、歪みすぎていた。その表情が見抜けないほど、メアリィは鈍感ではない。その無理矢理作った笑顔が、『何かある』と言っているようなものだった。
 メアリィはジャスミンを刺激しないようにという配慮だろうか、躊躇うような仕草を見せつつ、おそるおそる訊いてきた。
「あの……、もしかして、ジェラルドが何か……あったのですか?」
「!」
 ジャスミンは息を詰まらせた。動揺を隠すのに必死になり、何も反応できなかった。
 とにかく何か言わなければと思い、口を開いてみるも上手く動かない。
 メアリィの心配そうな視線が刺さる中、ジャスミンは一度深呼吸して、メアリィの方を向いた。
「ジェラルドは――」
 ジャスミンの辛そうな声に、メアリィが心配そうな表情を保ったまま頷く。
 そして。
「旅に出て……今はいないの」
「旅……?」
 メアリィが聞き返した。ジャスミンはメアリィの顔を見つめながら、重く頷いた。




「――そうでしたの……」
 ジャスミンは先日の出来事を、自分が知る限り包み隠さずメアリィに話した。
 メアリィは話の間、ジャスミンに同情するかのように辛そうな視線を向けていたが、ジャスミンは逆にそれが辛すぎ、何度も泣きそうになった。メアリィが話を真剣に聞いてくれていることは分かっていたし、それは嬉しかったのだが、自分でもまだ納得できない話である上、メアリィにまでそんな表情をされたらたまらなかった。そんなわけで涙に遮られて何度も何度もつっかえつつ、ジャスミンは全てを話し終えたのだった。
 話し終わってからは、しばらく痛いほどの沈黙が続いた。
 ジャスミンはもう何かを話すような気力がなく、メアリィは黙って考え込んでいる様子だった。メアリィは時々ジャスミンの方に視線を向けながら、口を動かそうとしていた。その様子は、メアリィなりに慰めの言葉を必死に探しているかのように見えた。
 その沈黙に次第に耐えられなくなり、ジャスミンが顔を伏せた時、突然肩に柔らかな手が乗った。
 びくっとして顔を上げるジャスミン。その目の前には、メアリィのあの微笑みが表れていた。
「大丈夫ですわ、ジャスミン」
「え……?」
 メアリィが何を言いたいのかさっぱり分からず、思わず呆けたような声で聞き返す。メアリィは柔和な微笑みを浮かべながら、言葉を続けた。
「ジェラルドは必ず帰ってきます。その『仕事』をきちんと終えて」
「ど、どうしてよ?」
 メアリィが悪いわけではないのに、思わずつっけんどんな声で返してしまう。だがメアリィは、そんなことは気にしていないようだった。
「だって、ジェラルドはやり始めたことを途中で投げ出すのが嫌いな人なんですもの。ジャスミンもそのことはよく知っているのでしょう?」
「え、ええ……確かにそうだわ……」
 彼は雰囲気を読むことが苦手で、場に合わない、いわゆる『失言』をすることも多かった。そのせいでたまに、真面目ではないと誤解されることも多かった。
 だがしかし、仕事を受け持った時の責任感は人一倍強かった。村長の孫だからなのか、彼の元々生まれ持った性格なのか、とにかくやり出したことを途中で諦めることは嫌いだった。とっかかりに時間がかかることは多々あったけれども、やり出すと最後までやりきるまでやめない。『無理だから』、『力がないから』、という理由で放棄することが、彼は一番嫌いなのだ。
 思わずメアリィの言った言葉に共感し、頷き続けるジャスミン。メアリィはなおも微笑みかけ、ジャスミンの肩を優しく叩いた。
「それに、ジェラルドは約束も守る人ですわ。ジャスミンと約束したことなら、必ず帰ってくるに決まっています。ジェラルドを信じましょう」
「そうね……その通りだわ」
 メアリィの言葉に、思わず胸が温かくなる。
 自分はジェラルドの安否ばかり心配していたけれど、メアリィはジェラルドの本当の姿を見抜いていた。ジャスミンは目の前に邪魔なものがありすぎて、そんな彼の本質に気づかなかっただけだ。それに気づかせてくれた、目の前の彼女。ジャスミンはそんな彼女を、本当の“天使”だと思った。悩んでいる者に対し、優しく微笑んで言葉をかけてくれる。ジャスミンはメアリィの言葉に、随分と心が救われた気がした。
 ジャスミンは何日も見せなかった“本物の微笑”を浮かべながら、メアリィの両手をぎゅっと握った。
「ありがとう、メアリィ……本当に、本当にありがとう……」
「いいえ。ジャスミンが笑ってくれて良かった……」
 メアリィもジャスミンの手をぎゅっと握り返してきた。
 こうして二人は心からの本当の笑みを浮かべたまま、しばらくお互いの手を握っていた。




 メアリィはその後、ジャスミンに見送られてジャスミンの家を去った。
 ロビンの家に寄ってから帰ると言って、ロビンの家の方へと去っていく彼女の後ろ姿を見ながら、ジャスミンはほんの少しだけ不安な気持ちが生まれたのを感じていた。
 先程までは全てを信じる気持ちが心を埋めていたのに、彼女が遠ざかる後ろ姿を見た瞬間、胸のどこかにかすり傷ができたかのようにふっと不安な気持ちが生まれたのだ。
 そう、それはまるで『既視感』のような。
 ジェラルドが去っていった時と、同じような。

――嫌な予感がする

 ジャスミンは頭に浮かんだその言葉を、すぐに消し去ることにした。
 メアリィの後ろ姿が見えなくなってから、ジャスミンはゆっくりとした足取りで家の中へと入っていった。




 メアリィは、ジャスミンと会って話した後彼女に見送られ、ロビンの家に寄ってからイミルへの帰路についた。ハイディアとイミルの距離は決して近いとは言えないが、もう歩き慣れた道だ、苦痛に思うことはなかった。
 彼女がイミルに着いた頃には、既に日が暮れかかっていた。留守番をしているムギとヒエイのことを思いながら、メアリィはイミル村にある神殿へと入る。
 神殿の扉を開けた時、二人の子供がはっとこちらを振り向き、そして途端に嬉しそうな顔をして、メアリィの方へ寄ってきた。
「メアリィ、おかえり!」
「遅かったから、少し心配したよ!」
「ムギ、ヒエイ……ちゃんとお留守番しててくれたのね。ありがとう」
 メアリィは、まるで太陽のように笑う二人の頭をそっと撫でてやる。
 その後、ムギがそういえば、と切り出し、メアリィにとっては気になる発言をした。
「お留守番している間、ジェラルドさんって人が訪ねてきたよ」
 その後そうそう、と頷くヒエイとムギの言葉に、メアリィの心臓は跳ね上がった。
「ジェラルド!? そ、それで……どうしたの?」
「マーキュリー灯台の力をかして欲しい、って言うから、わたしがプライを使って道を開けてあげたの。その人、お礼だけ言ってここから出ていったよ」
「そう……」
「ああ、わたし本当に嬉しかったな。だってプライを使って人を助けたなんて初めてだもの! わたしもちゃんとプライを使えるようになったのよ!」
 そう言ってはしゃぐヒエイに、メアリィは笑顔になって良かったわね、と頭を再び撫でてやった。
 ムギとヒエイがはしゃいでいる間、メアリィは考えを巡らせていた。何故旅に出ると言ってハイディアを去ったジェラルドが、マーキュリー灯台に来たのか? その上、『力をかして欲しい』とはどういうことなのだろう、と。
 今のところメアリィには考える手がかりも何もないので、そこで止めるほかなかった。これ以上考えていても仕方がない。
 そうは思ったものの、脳内にあふれる質問と考えを止めることはできそうになかった。メアリィはムギとヒエイを奥に行かせて、自分だけはずっとその場にたたずんだ。


――ジェラルドが、何故……


 謎は、深まるばかりであった。
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