炎の絆
#3 こらえきれぬ涙

「ジャスミン、お前もそろそろ結婚を考えたらどうだ?」
 ある日、朝食を取っていた時であった。
 ジャスミンの父が突然、ジャスミンに向かってこんなことを言い出したのである。
 それまでほぼ黙って朝食を食べていた家族は、それぞれに反応を示した。ジャスミンは危うく口に入れたものを吐き出しそうになり、兄ガルシアは咳払いをし、母は父に笑いかけ、彼の意見を支持した。
 ジャスミンはとりあえず口の中にあるものを飲み込み、父と母に向かって不満そうに言う。
「そんな……いくらなんでもいきなりすぎ――」
「相手はロビンなんかどうだ。ロビンならお前の幼なじみだし、いい男じゃないか。お前の将来のためにいいと思うのだがなあ」
「そうね、その通りだわ。あそこは一人息子だけど、ジャスミンならきっと大丈夫ね」
 ジャスミンの放った不満もむなしく、それは父と母が嬉しそうに話す、仰天するような内容の発言によって遮られてしまった。
 ジャスミンは完全に箸を止め、唇を噛んで俯いた。そんな娘の様子にも気づかず、二人は勝手に話を進めている。
 話に上がっているロビンも八英雄の一人であり、ジャスミンやガルシアの幼なじみでもある。彼はジェラルドと共にワイズマンの命を受けてハイディアを旅立ったが、後に仲間に加わった青年だ。
 なかなかの美男子で、その強さも性格も申し分ないという、どこからどう見ても完璧な青年だった。
 だが、彼には既にメアリィという恋人がいる。旅をしている頃に始まった二人の恋は、今も現在進行形で続いている。今も知っているのは八英雄とロビンの両親だけであろうその事実を、ジャスミンの両親が知るはずもない。だから二人は、こんな話を勝手に進めていられるのである。
 テーブルの上に置かれていたジャスミンの手が握られ、拳が震え始めた。指の爪をこれでもかというほどに食い込ませ、痛さで己を抑えようとするも、もう限界が近かった。再び唇を噛んでみたが、それもほとんど効果はなくなった。
 そうして、我慢できなくなったジャスミンは突然行動に出た。
 拳を振り上げ、テーブルに思いっ切り叩きつけたのだ。テーブルは鈍い音を出しながら揺れ、その衝撃で上に置いてあった皿などが耳障りな音を立てた。
 その行動に唖然としたジャスミンの両親は、口をあんぐりと開けてジャスミンを見た。ジャスミンは勢いよく顔を上げ、二人に言い放った。
「私、結婚する気なんてないわ! 勝手に話を進めないでよ!」
 場は、無言になった。
 ジャスミンは椅子を乱暴に引き、立ち上がった。
 突然の娘の行動に、両親とも驚きを隠せない。
 しかし言葉が見つからないのか、二人とも口を情けなく開けたままである。
 すると横でゆっくりと紅茶を飲んでいたガルシアが、カップを置いて口を開いた。
「――父さん、母さん、ジャスミンに無理矢理結婚させる必要はないと思う」
 ガルシアの発言に、その場にいた全員が彼に目を向けた。
 三人とも理由は違うけれども、「驚き」の表情を顔に出して。
 その場に再び痛々しいほどの沈黙がおりる前に、ジャスミンは椅子を蹴って部屋から飛び出した。後ろから「ジャスミン!」という母の叫び声が追いかけてきたが、ジャスミンはわき目もふらずに自分の部屋へと向かっていった。
 階段を素早く駆け上がり、自室に飛び込んでドアをきつく閉める。この時ばかりはドアがどんな音を立てたかなど、気にも留めなかった。


「……っ」
 ベッドの上に座って窓の外を眺めながら、ジャスミンは喉が詰まるような感覚を覚えた。
 喉の奥に込み上がってくるものを、無理矢理押し込めているような。
 ジャスミンは特に意識はしていなかったのだが、この時に初めて気が付いた。
 喉が詰まるような感覚と同時に、目の前がぼうっとなることを。
 ジャスミンはこらえきれずに大きく息をつくと、それと同時に目から温かい何かが伝うのを感じた。
「……涙……」
 そう。それは涙だった。
 涙に気づいてから、手を動かしてそれをゆっくりとぬぐう。ぬぐった指先がひんやりと冷たくて、ジャスミンは思わず指を顔から離した。
「ジェラルド……」
 自然に、ジェラルドの名前が口から飛び出した。
 何も考えようとしなくても、いつもジェラルドのことばかり考えていた。メアリィがなぐさめに来てくれてからもう一ヶ月も経つが、未だ連絡はない。
 たまにふらっと村の入り口まで行ってみるのだが、ジェラルドの姿はどこにもなかった。でも、もしかしたら今帰ってくるんじゃないかと思って、しばらく待ってみることも珍しいことではなかった。
 やはり、ジェラルドはここにはいない。
 寂しいと感じるのが、既に常になっていた。
 しかし涙だけは見せまいと、そう思っていた。
 一人だけになった時も、泣くことだけはしまいと、それだけを心の支えにしてきた。
 だが、もう限界だった。
 ジャスミンは何も気にすることなく、涙を流し続けた。




「ジャスミン、入ってもいいか?」
 軽快なノックの音とともに、兄ガルシアの声が部屋の中にまで響いてきた。
 ジャスミンははっと泣くのを止め、咄嗟に目を擦って涙を拭った。ぼんやりとしていた視界が晴れていく。
 立って鏡の前まで行き、目が涙目になっていないかを確認した後、ジャスミンは静かにドアの方を向いた。そして「どうぞ」と言った。
 ガルシアはその声を聞いてから、ゆっくりとドアを開けて入ってきた。
「ジャスミン……」
「なに、兄さん?」
 ジャスミンはガルシアに作り笑顔を向けた。心の中から笑うことなどできず、口の形を少し曲げて、笑みを作っただけだった。
 ガルシアは、それに応えて笑みを見せようとはしなかった。ただ何もかもを見透かしたかのような視線を向け、静かに言った。
「……無理はするな、ジャスミン。お前が泣いていたのはわかっている」
 その言葉に、ジャスミンははっと目を見開いた。だがすぐに目を伏せて、頷いた。
「うん……」
 ガルシアには、全てお見通しだったようだ。
 それもそうかもしれない、とジャスミンは思う。この一ヶ月、あのジャスミンがこれだけ元気をなくせば、誰だっておかしいと思うに違いない。それ以上に、ガルシアは人の変化に対して敏感だった。ジャスミンに面と向かって何も言うことはなかったが、何か感じていたのかもしれない。
 その後ガルシアはジャスミンのベッドに座り、ジャスミンも歩いてベッドまで行った。二人でベッドの上に座って、ガルシアは再び口を開いた。
「お前が泣いていたのは、ジェラルドのことが理由なのか?」
 何もかも分かっている様子の兄に少々驚きつつも、ジャスミンはこくりと頷いた。
 そうか、とガルシアは頷き返し、遠くを見るような目つきになる。
「ジェラルドがいなくなってから、一ヶ月も経つ。もうほとんどの人はその事実を知っているが、誰も“何故いないのか”ということは知らないんだ。ジェラルドの家族に聞いてみても、誰も何も答えないらしくてな……」
「そうなの……」
 ジャスミンは真実に触れられないもどかしさを感じながら、一方では心の中で納得していた。
 ジャスミンはジェラルドがハイディアを去る様子を見ていた、ただ一人の人間である。そこで本人に“何故去るのか”という疑問を何度もぶつけたが、彼は何も答えようとしなかった。家族が隠し通すのも納得がいく。
 しかし、隠し通すジェラルドたちの姿勢には納得できても、理由について明確な答えが得られないため、そのことは納得できたわけではないのである。
 ガルシアはそれ以上何も言おうとしないジャスミンに、そのことを訊いた。
「お前は何か聞いているのか?」
 ジャスミンは静かに首を振った。
「ううん、何も……。ジェラルドに直接聞いてみたんだけど、何も言ってくれなかったわ……」
「そうだったのか」
 ガルシアはまた頷いて、手をあごにやって考え込むような仕草をした。
 ジャスミンは目を伏せて、じっと自分の膝を見つめるばかり。自分ではどうすることもできないもどかしさが、いつも以上にジャスミンの胸を締め付けていた。
 しばし、沈黙が続く。
 部屋の中の空気が少々重いように感じられるほどの沈黙だった。
 ジャスミンが何度目かの無意識なため息をついた時、ガルシアが口を開き、ジャスミンに問いを投げかけた。
「ジャスミン。お前は、真実を知りたいと思うか?」
「えっ?」
 突然の兄の想像もしなかった内容の問いに、ジャスミンは戸惑う。
「ジェラルドがどうしていなくなったのか、だ。その理由が知りたいと思うか?」
「それは……」
 ジャスミンは言葉に詰まる。
 ずっと知りたいと思ってきたことなのに、こうして改めて問われると迷ってしまう。
 ジェラルドや彼の家族が、ガルシアの言う“真実”をひた隠しにするのは、何か理由があるに違いないだろう。ジェラルドがあれだけ深刻そうな顔をしていたところからみると、単純な理由だとは考えにくい。
 それに、ジェラルドは理由を聞かれるのを嫌がっていた。
 ジェラルドが言った“お前に何も言えない”というのは、もしかしたらジャスミンに知られたくない理由なのでは――。
 そこまで考えたジャスミンは、恐ろしい予感がして身震いをした。
 妹のそんな様子に気づいて、ガルシアは首を傾げる。
「どうした、ジャスミン……?」
「あ、ううん、なんでもない……」
 ガルシアはそれでも首を傾げていたが、言及はやめにしてもう一度訊いた。
「それで、どうする?」
「……うん、私は……」
 ジャスミンは一呼吸置いてから、ガルシアの目を見て言った。
「ジェラルドがハイディアを去った理由が、知りたい」
「わかった」
 ガルシアは頷き、ふっと笑ってジャスミンの頭をそっと撫でた。
 ジャスミンは驚いて声を上げたが、すぐに笑い出した。
「もう、兄さん……子供扱いしてるでしょ?」
「いや。お前も大人になったんだなと思っただけだ」
 二人の笑い声は、部屋の空気を一瞬のうちに軽いものに変えてしまった。
 久しぶりに響いた笑い声は、外にまで聞こえていたという。
 こうしてジャスミンは、ガルシアの助けを受けながら、自力で真実にたどり着くことを決意した。




 ゴンドワナ大陸の東に位置するラリベロの町に、少女は住んでいた。
 少女の名はシバ。短く切った金髪が印象的で、目つきが少々鋭い彼女は、あの八英雄の一人である。風の力を操り、未来を予知することもできる風のエナジストだ。
 彼女は旅が終わった後、故郷のラリベロに戻ってきた。それからはずっと、町長ギョルギスの娘としての毎日を送ってきた。
 そんなある日、彼女のもとに一人の青年が訪ねてきた。
 彼の名はピカード。シバと同じ八英雄の一人で、後ろでまとめた水色の髪が象徴しているように、水のエナジストである。彼はレムリアという古代都市から、船を操ってラリベロまでやって来た。
 ギョルギスの家を訪ねてきたピカードを、シバは快く迎え入れた。
 自分たちの近況について話が弾む中、シバはふと、思い出したように言った。
「そういえば、前にジェラルドが訪ねてきたのよ。こんなところにまで……」
 ジェラルド、という名前が出た途端、ピカードは反応を示した。目を大きく見開きながら口に持っていったカップを離し、机の上に静かに置く。そして口を開いた。
「ジェラルドが……? そういえば、僕のところにも来たよ。船を貸して欲しいっていうから、一つ貸したんだけど。シバのところにも来ていたなんてね」
「本当なの? それはいつのこと?」
「ついこの間。もしかしたら、同じ頃なのかもしれないな」
「ええ……」
 シバは顎に手をやり、首を傾げる。
「ジェラルド、ヴィーナス灯台の力を貸して欲しいって言ってきたのよ。ヴィーナス灯台に登って、力を受けたいって……。でもラリベロには私以外にエナジストなんていないし、私は風のエナジストだからどうしようもないって言ったら、自力で登ってみるって言って、ヴィーナス灯台の方へ行っちゃったのよ。それっきり見ないけど、なんだか訳が分からなかったわ……」
「それは気になる話だな……」
 ピカードはそう言ってから、今度は自分が話し始めた。
「僕の方は、こちらの港に着いたばかりの時でね。深刻な顔で船を一艘貸して欲しいって言うから、驚いてしまったよ。ちょうど予備の船があったし、すぐに貸し出したんだけど……シバの話は興味深いな。ジェラルド、一体どうしたんだろう?」
「さあ……全く掴めない話よね……」
「ああ」
 二人は同時に首を傾げたが、それ以上考えようとはしなかった。
 そうしてすぐに、別の話題へと移っていった。
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