炎の絆
#6 炎の絆

「ジェラルド! ジェラルド!!」
 ジャスミンは走っていた。
 前に障害物がないかだけを確かめながら走っていたため、周りの風景は気にも留めていなかった。雨のことも気にならなかった。ジェラルドのことでいっぱいで、とても他のことを考える余裕などなかったのだ。
 家を飛び出してから、ハイディア村の中をどう走ったか分からない。気づけば、ジェラルドの家の前に来ていた。
 ジェラルドの家は代々村長を務めているため、かつては村の中でも一番大きな家だった。だが一度“黄金の太陽現象”によって崩れ、建て直されたその家は、他の家と何ら変わりはない大きさだ。ジャスミンは荒く息をつきながら、その家を見上げた。ハイディアにいた頃見ていた彼の家と比べればやはり小さくて、ジャスミンは急に悲しくなった。
「嫌よ……」
 ジャスミンは俯き、ぽつんと呟いた。
「そんなの……絶対に嫌よ……」
 ジェラルドが、抗えぬ運命に従わされようとしている。この村を守るために、この村に住んでいる人々を守るために、ジェラルドは仕事を終えようとしている。彼が死に一直線に向かっていただなんて、あの時、どうして想像できただろうか。彼の悲しげな横顔は確かに気になるものではあったが、まさか死が絡んでくるなんて、そんな縁起でもない想像は、容易に浮かび上がるものではない。
 そんなことを考えていたジャスミンは、気付けば嗚咽をもらしていて、はっと目を見開いて目をこすった。雨で濡れていた頬に伝う、温かいもの――涙。一瞬、まさかと自分でも思った。
「うそ……私……」
 そう発した自分の声が、涙声になっているのが我慢できない。ジャスミンは慌てて再び目を強くこすったが、目尻から涙は溢れてくるばかりで、留まるところを知らない。雨はジャスミンの体を叩いては流れてゆき、彼女を徐々に弱らせようとしているかのようだった。
 雨の中、ジェラルドの家の前で、ジャスミンは涙を流し続けた。
 嗚咽を漏らすことを、ためらわずに。


 ――ジャスミン
 突然名前を呼ばれた気がして、ジャスミンははっと後ろを振り返った。だがこの雨の中、外に人がいるわけがない。気のせいだったのかと思い、涙をぬぐって家に帰ろうとすると、また同じ声が聞こえた。今度は、耳の中にはっきりと響くほど鮮明に。
 ――ジャスミン
「誰……?」
 ジャスミンは問いを口にしながら、もう一度辺りを見回した。誰の姿も見えない。しかし先程のは、聞き間違いではなかったような気がする。ジャスミンは不安な気持ちに駆られながら、もしかしたらと思い当たった人物がいた。
「ジェラルド、なの?」
 耳の中でまだ反芻している声を、もう一度意識して聞いてみる。聞けば聞くほど、ジェラルドの声であるように感じられた。ジェラルドの姿はどこにも見えないのに、どうしてジェラルドの声だけ聞こえるのだろう。ジャスミンは分からなくてしばらくおろおろとしていたが、何かにはっと気付いたように顔を上げ、一瞬の後にはジェラルドの家を離れて走り出していた。
 確かなことは何もない。ただ、ジャスミンがはっと思いついただけのことだ。それでも確かめずにはいられなくて、その思いが真実であることを願わずにはいられなくて、ジャスミンは走った。村の入り口へ。
 ジェラルドが、帰ってきたのかもしれない――ふと浮かんだその想像を、胸に抱えて。
 しかし、現実はそう甘くないようだった。
 その思いを原動力として走ってきたジャスミンだったが、村の入り口にジェラルドの姿はなかった。荒く息をつきながら、ジャスミンは落胆する。一気に走ってきたのでどっと疲れが出てきて、ジャスミンはその場にへなへなと座り込んだ。
「……もう、駄目……」
 今までせき止めていた何かが、我慢していたはずの何かが、疲れとともにどっとジャスミンの心に押し寄せた。それと同時に、ジャスミンの目からは再び涙が溢れた。
 ずっと、ジェラルドのことだけを思っていた。ジェラルドと別れた時から、ずっと。
 彼のことを思わない日はなかった。いつ帰ってくるのだろうと不安になる夜を何度経験したことか。彼に会いたいその想いに、何度涙を流したことだろう。
 でも、ジェラルドとは約束を交わした。彼と交わした約束は確かなものだと、友人のメアリィは元気づけてくれた。だからジャスミンは、彼が帰ってくることを信じた。
 そして、先程聞かされた、全てのこと。我を失うほどに動揺させた、全ての真実。
 それがふっと頭の中によみがった時、今度は兄ガルシアの声が耳の中を覆った。
 ――ジェラルドの肉体は……それに耐えきれずに崩壊すると?
「っ……やめて、消さないで……」
 ジェラルドの声が埋め尽くしていた領域に、兄の残酷な言葉が侵食していく。

 ――ジェラルドの肉体は耐えきれずに崩壊する

 ――ジェラルドの肉体が

 ――崩壊する

「そんなこと聞きたくない……っ!」
 必死に隠そうとしても、出てくるのは涙声ばかり。
「兄さんの……兄さんのバカ!」
 兄が悪いわけではないことなど、最初から分かっている。
 それでも彼女は、何かのせいにして苦しみから逃れることしかできなかった。
 自己嫌悪の波にもまれながら、ジャスミンはただそうすることしかできなかった。
 そしてついに、ジャスミンは心の奥底に常にあったただ一つの願いを、涙声ながらもはっきりと口にした。
「帰ってきてよ……」
 ――運命なんか構うものか。
「早く帰ってきてよ、ジェラルド……」
 ――私は、ただ会いたいだけ。


 どのくらいの時間が経ったのかはわからない。
 ただ、時間が動いた、とジャスミンははっきりと悟った。顔を上げないまま、ぼんやりと地面を見つめる。
「…………」
 涙で覆われた目は、景色をはっきりとは映してくれない。だがジャスミンには、分かったことが一つだけあった。
 自分の前に、誰かがいる。影が伸びて、自分を覆っている――。
「ジャスミン!?」
 ジャスミンはその声に動かされるように、つ、と顔を上げた。
「ジャスミン、こんなところで何してんだよ……?」
 そこには、確かに、ジャスミンが待ち望んだものがいた。
 赤い髪、がっしりとした肩、そして、大きくて優しい手。
 涙に覆われた目を通して見ても、それだけははっきりとわかった。
「ジェラ……ルド……?」
 自然に出たその言葉を自分の中に飲み込んでから、ジャスミンは突然はっとして目を擦った。覆われた涙が全てなくなるまで、何度も何度も擦り続けた。ジェラルドはそんなジャスミンを、不審そうに見つめている。
「なんだ、ジャスミン……泣いてたのか?」
 真っ赤になったジャスミンの目を見れば、そんなことは一目瞭然。別にジェラルドでなくとも、誰が見てもその事実は明らかである。でも、目の前にいる彼にそれを見られたのが恥ずかしくなって、ジャスミンは思わず叫んでいた。
「誰のために泣いたと思ってるのよ……!」
 本当に、この男は何も分かってない。
 改めて感じたその事実は、ジャスミンを呆れさせると同時に懐かしく、温かい気持ちにさせた。
 ジャスミンが怒っているのを察知したのか、ジェラルドは気遣うように少しおどおどしながらジャスミンに声をかけてきた。
「あの、ジャスミン? 俺、今帰ってきたから……」
「そんなこと分かってるっ!」
 自分の目にはっきりと映っているのだから、彼が目の前にいるのが十分によくわかる。それだけでいいのだ。
 ジェラルドに言ってもらわなくても、それを痛いほどに実感している。嬉しいという、その気持ちが心を満たしている。こんなことは、本当に久しぶりだ。
 ジェラルドはそうか、と言ってしゃがみ、まだ座り込んでいるジャスミンと視線を合わせた。その視線が妙に切なげに見えて、ジャスミンははっとした。
「ただいま、ジャスミン」
 ただいま、だなんて、今更。
 そうは思ったが、ジャスミンが答えるべき言葉は一つしかなく。
「……おかえり、ジェラルド」
「ああ……」
 ジェラルドはそう言って、ジャスミンの頭をさらりと撫でる。
 それが心地よくて、ジャスミンはジェラルドの方に少しだけ頭を突き出した。
 ――時間が止まればいい、と思ったのは、初めてのことだった。


「――さて、と」
 ジェラルドはジャスミンの頭から手を離し、立ち上がった。ジャスミンもそれにつられて顔を上げる。ジェラルドの顔は今までとは一変し、厳しく真面目な顔になっていた。
 それにただならぬ雰囲気を感じたジャスミンは、思わず唾を飲み込んでいた。
「ジャスミン、悪いけど……家に戻っていてくれるか?」
 その視線にも言葉にも、先程までとは違う雰囲気を感じる。
「な……なんで?」
 聞き返したジャスミンの声は、まだ涙声だった。
 ジェラルドは口を開きかけて閉じ、遠くに目をやった。何かを決めかねているような迷いが、そこに感じられる。答えにくそうだ、とジャスミンが思った時、ジェラルドは再びジャスミンの方に視線を戻した。
「――俺は、“仕事”をまだやり終わってない。今から、やり終えなきゃいけないんだ」
「!」
 ジャスミンははっとした。“仕事”とは、まさか。
 ある事実に思い至ったジャスミンの頭の中に、今度はイワンの声が響き渡る。
 ――ジェラルドは、ハイディアに力を与えるための礎を築こうとしているのではないでしょうか?
 ――黄金の太陽現象で集められる力は、とても人間に耐えられるほどの力ではない……
「やめ……やめて……」
 苦しそうに呟くジャスミンに、追い討ちがかけられた。兄の声だった。
 ――ジェラルドの肉体は……それに耐えきれずに崩壊すると?
「いやぁ……!」
「ジ、ジャスミン!? どうしたんだ、おい!」
 突然叫んでうなだれたジャスミンを見て驚きの声を上げ、ジェラルドはさっと彼女の肩を持って揺らした。その体は、痛々しいほどに震えている。ジャスミン自身もそれを感じていた。
 ジェラルドが“抗えぬ運命”に従ってしまう。従えば、ジェラルドはそのまま――。
 そんなこと、考えたくもない。絶対に、そうなって欲しくない。
「やめて、ジェラルド。そんなことしちゃ駄目!」
「ジャスミン……? お前、一体何を――」
 言いかけて、ジェラルドははっと目を見開いた。そしておそるおそる、ジャスミンに尋ねた。
「ジャスミン、お前、何もかも知ってるのか……俺の“仕事”のことも?」
 ジャスミンはそれを聞いた途端に脱力し、何もかもを悟ったジェラルドをぼんやりと見つめた。ジェラルドは目を伏せて、申し訳なさそうな表情をしていた。そんなジェラルドを見て涙が溢れそうになるのをこらえ、ジャスミンはこくりと頷いた。
「そう、だったのか」
 ジェラルドはジャスミンから目を逸らした。ジャスミンはもう、迫り来る涙を押しとどめきることはできなかった。
 ぽた、ぽたと、涙は地面に落ちていく。ジャスミンは嗚咽だけはと思いこらえていると、ジェラルドがそれに気付き、そっとジャスミンの涙をすくい取った。ジャスミンは、ジェラルドの指の上で静かに流れていく涙を見た。
「黙ってて、ごめんな。俺、お前にだけは言いたくなかった。言えなかったんだ。お前だったら絶対俺のことを止めるだろうと思ったし、何よりお前の悲しむ顔を見たくなかったから……」
 ジェラルドのその声を聞いてたまらなくなり、ジャスミンは自分で涙をぬぐい、叫ぶように言った。
「止めるに決まってるじゃない……! なんで、なんでジェラルドが……こんなこと……」
「俺しかいないんだ。これができるのは、俺しかいないんだよ、ジャスミン」
「それでも……それでも、ジェラルドがそんなことになるなんて、私は嫌!」
 ジェラルドに運命に従って欲しくなくて、ジェラルドが運命のままになるのが怖くて、ジャスミンはジェラルドを必死に引き止めた。しかしジェラルドの表情は、既に決意が固まっている顔だった。
 これを人が見たら、決心した後の男らしい顔、と表現するのかもしれない。だがジャスミンには、それが生きることを諦めたという顔にしか見えなかった。
 そしてジェラルドはそのまま、ゆっくりと首を横に振る。
「俺の上に、何人もの命がのっかってる。俺がやれば、みんなは助かる――」
 呟くように言い、ふっとジャスミンに笑いかける。
「賢いジャスミンなら、さ。どっちを選択した方がいいかぐらい、分かるだろ?」
 それは、完全に生を諦めた顔だった――。
「やめて……やめて、ジェラルド!」
「ごめんな、ジャスミン――」
 ジェラルドは悲しそうな笑みを残し、すっと目を閉じた。きっと受けてきた力を手に集中させているのだろう。そのまま、大地に注ぎ込むことができるように。
 ジャスミンは焦った。焦る中で、必死に頭を働かせようとした。
 ――考えなきゃ……考えなきゃ!
 ジェラルドが死なない方法を。
 そんなものあるかどうか分からない。けれど考えれば、答えが出るかもしれない。
 それだけを希望に、ジャスミンは必死に考えた。頭から湯気が出そうなくらい、熱くなって考えた。
 イワンの言葉が、ガルシアの言葉が、メアリィの言葉が、何度も何度も頭を巡った。混じり合って訳が分からなくなるほど、何度も引っ張り出して考えた。

 ――ジェラルドはやり始めたことを途中で投げ出すのが嫌いな人なんですもの
 ――せっかく建て直したばかりなのに、そんな宣告は残酷ですわ

「メアリィ……」

 ――手は力を解放したり、体内に溜める時の管の役目を果たしたりするんです
 ――ジェラルドは、このハイディアに力を与えるための礎を築こうとしているのではないでしょうか

「イワン……」

 ――ジェラルドがどうしていなくなったのか、だ。その理由が知りたいと思うか?
 ――つまり、ジェラルドの肉体は……それに耐えきれずに崩壊すると?

「兄さん……!」

 そうしている間に、ジェラルドの精神集中が終わったらしい。ジャスミンはますます焦った。
 ジェラルドが手を伸ばしかけている。ゆっくりと死に歩み寄っている。
 どうにかして、と焦るジャスミンの頭の中に、ある一つの考えが浮かんだ。
 それは、イワンの言葉にヒントを得たものだった。
 ――手は力を解放したり、体内に溜める時の管の役目を果たしたりするんです
「これなら……!」
 ジェラルドを救えるかもしれない。そう思ったジャスミンは、今まさに地面に手を置こうとしているジェラルドに駆け寄り、ジェラルドの左腕をぐいと掴んだ。驚きの表情に変わったジェラルドは、すぐに厳しい表情になってジャスミンを見つめた。
「ジャスミン、止めるな! こうするしか方法はないんだ――!」
 ジャスミンもジェラルドと同じくらい、否それ以上に、必死に訴えた。
「あなたの力を分けてほしいの、ジェラルド!」
「な、なんだって?」
「こうすれば、きっと私の体に力が――!」
 ジャスミンはそう言って、左腕を伝ってジェラルドの左手に自分の両手を絡めた。ジェラルドはやっと、ジャスミンが何を意図しているか分かったらしい。慌ててジャスミンの手を振りほどこうと、左手を振り回した。
「やめろ、ジャスミン……お前もどうなるかわからないぞ!」
 しかしジャスミンは、決してジェラルドの手を離そうとはしなかった。それどころか、ますます強く握りしめた。
 ――ジェラルドの力を感じる……ジェラルドの力が、私の体に注ぎ込まれている!
 彼が受けてきた力は、こんなに大きなものだったのか。その強さと大きさに驚きながら、ジャスミンはジェラルドの手を強く握る。少しでもこの行為が、ジェラルドの負担の軽減となれば。そう思って、とっさに実行したのだった。
 少しして、既にジェラルドが右手を地面に下ろしているのを確認し、ジェラルドに笑いかけた。
「ジェラルド、死ぬ時は一緒なんだから――ひとりで勝手に死ぬなんて、許さないんだから!」
 そう言うが早いか、ジャスミンは開いている自分の左手を、地面にすっと置いた。無駄のない動きだった。ジェラルドの顔が先程よりも強い驚愕の色に染められるも、声まで届くことはなかった。


 ――地面に注ぎ込まれたエレメンタルの力は、眩い光を発した。
 そして。
 その光の中に、二人とも飲み込まれていった――。
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